このブログのテーマでもある「あるがまま」「ありのまま」ほど(それを表出することが)難しいことはないという。
ほとんど困難だ。
なぜか?
それこそ何度かこの場で触れて来たような”例のアレ”が関わる問題だからだ。
そう、「考える」という問題。
あるいは、方法論、方策、思案、といった世界・・。
そいつが鎌首をもたげた瞬間から、それは物事の本質から大きく逸脱し、しまいには迷いの境地へ追い込む。
有名なエピソードにもあるように、あの高名な茶人の若い時分、さる庭を掃き清めようとした際の態度である。
そこにはすでに道端に積もった落ち葉がきれいに取り去られてしまっていた。
茶人は、ひとしきり取り去った木の葉を元のようにばら撒くのだが、このように、そうした「露地(ろじ)」という特別な空間を、その辺の俗なものとしてみなす愚を、人は何度も行うものである。
なるほど綺麗になっている。
しかし、それはあまりにも作為的ではないか?
不自然ではないか?
では、どの程度までが「自然」で、どこからが「不自然」なのか?
その境界はどこにあるのか?
何が「善」で、何からが「悪」なのか?
善にてすべてを覆うべきなのか、あるいは悪の余韻を残すべきなのか?
このようにしてたった一つの何でもないことですら、そこにジレンマが渦巻き、答えを出すことが不可能になってしまう。
ところが、大方は答えを求める。
しかも、それは大概自分に都合の良いものであったり、五感に心地よいものであったりする。
つまり、彼は暗に答えを持っていて、それに対して世界の反応はどうなのかが知りたいわけだ。
なるほど私たちはみな物心つくころから論理的に考えることを尊重してきた。
その当然の帰結は「結論」であり、「答え」でもあった。
結論がない考察は、いつまでも覚め止まぬ夢、明けない夜のごとしで、埒が明かないし、何らの価値もない。
そんな風に教わってきたし、また信じ込んできた。
しかし、どうだろう。
その結論なり答えが立ちのぼるとき、
それは主導者側に向いていないだろうか?
noteなどのSNSは、その集大成である。
主導権を持つ投稿者は、さすがにそれとなく表に出ないような体で、しかし自説への布石を随所に埋め込む。
「私の○○論を読んだ(賢明な)読者はお分かりかと思うが・・」
で、読者は足並みをそろえる。
私にはそれがカルトに見えてしようがない。
そこから先は、実に奇っ怪な論理が展開するのだが、もはや呪縛にかかったもの(エリート)にはそれが見えない。
内心では、正しいこと、挙句は「真理」を究明、訴求したいのだが、そこに抵抗がある。
私はもうずいぶんと昔に、物事の善悪や、正邪、優劣などで判断を下さないようにしている。
それらが上辺を容易に取り繕うからだ。
では、何で推し量るのか?
私は単に「大きい」「小さい」で判断する。
それがたとえ的を射ていなくても、「より大きい」「より小さい」で解決できてしまうからだ。
もちろん、より大きいものが正しいのでも、完全に近いのでも何でもない。
より大きい分だけ、彼には余裕というかキャパの広がりがあるし、その多くは謎に違いない。
ただ一つだけ言えることは、彼は、その対象者と比べて、いつも「より大きい」ということだけだ。
いかなる正義でも、それが小さなものであれば、それは無効であるか、次第に不正に転じてゆく。
なぜなら、そこにはいつも「結論」「答え」があらかじめ用意されているからだ。
一方、「より大きなもの」にはそれがない。
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