農家や由緒ある本家の後継とかを別にして、一般に家とか土地とか、そうした不動産を手にすることほど厄介で後々面倒がついて回るものもないだろう。
まして、それらを残したまま死んでしまったら、残されたものが今度はその面倒に付き合わされることになる。もちろん、そこにまとまった預貯金や現金などが加わると、これまた相続で親類の見なくてもいいような醜態があぶりだされるとあっては、こうした世間で言う価値を手にすることが、イコール葛藤の種であることは明白だ。
お気楽な「間借り人」人生
私は過去に2軒ほどいわゆる「マイホーム」を取得したことがあったが、離婚その他の騒動で身も心もボロボロになってようやく手放すことができたという苦い経験がある。
爾来、持ち家というものには芳しいイメージが無い。それは時空の縛りでもあるからだ。
人は、しかるべく土地や建物を手に入れたと思いがちだが、実際は土地建物の方が人を手に入れて、手枷足枷を強いているのかもしれない。
よって私はその後は間借り人(賃貸人)として好きな場所を根城としてきたわけで──といっても主に横浜市の限られた場所ですが──引っ越しを趣味として、持ち家派には体験できない環境を手に入れることができた。
とはいっても、この節「引っ越し」といえども、新家賃や敷金礼金なども含めると百万からのおカネが飛んで行ってしまうわけで、貧乏人としてはあまり褒められた趣味とは言えないな、と今になって反省している次第。
それはそうとして、賃貸ゆえの制限はあるとはいえ、その枠内で写真のようなDIYも楽しむことができた。今となっては懐かしい山下町(といっても中華街寄り)の築40年越えのマンションの一室であるが、なんだかピザ釜の中にいるようで、妙に落ち着いた雰囲気が気に入っていたものだ💦
学生時代に住んだ港北区の日吉は(私に言わせればそこはむしろ川崎なので)置いておいて、横浜住まいは、神奈川区の三ッ沢下町にある公団団地の一階から始まった。わたし自身、幼少期から青少年時代を公務員官舎で過ごしたので、団地は馴染み深いものであった。
普通公団団地と言えば、郊外の駅からバスで数十分もかかる立地が一般的だが、そこは最寄りの地下鉄駅から徒歩3分だったか5分という都心部にしては一見好立地な物件であった。
ただし、正確には”徒歩”ならぬ”登山”3,5分であったわけで、よっぽどのアルピニストでもない限りその時間での登坂は無理だろう。別ルートは東横線の反町から15分ものだらだら坂を登るといったもので、登り切ってようやく団地特有の緑が見えてきた。
一帯はもちろん丘陵地ということもあったが、なんというか老人ホームのような閑静さと隔離感があった。夜になると、ウ~ウ~と妙に太い鳴き声を耳にしたが、後日それが団地の端にある立派な池からのものであることが分かった。声の主はウシガエルだった。このカエルはだらだら坂の途中でも、そのふてぶてしい威容をよく見かけたものだが、なんといってもその生命力の強さを見せつけられたのは、梅雨時のある朝、外に出てみると歩道から何からびっしりとそのカエルの赤ちゃんが埋め尽くし、歩けないほどだったことである。なんでも一匹が数万という卵を産むらしいから、それが一斉にふ化した数たるや想像を絶する(もっともオタマジャクシの段階である程度は淘汰されるんでしょうがね)。
敷地内にはぽつぽつ小公園があった。古い団地にありがちな遊具が置いてあったが、そこにはちびっこの姿はなく、色あせたバンビやリスなどの可動型遊具が寂しげだった。「きっと30年も40年も前には、いま住んでいる方々の子供達も芝生を走り回っていたことだろう」なんて、懐古的になる。実際、団地の住民はお年寄りが大半だった。
そういえば、団地はさまざまな催しがあり、お花見があったり、クリスマスにはツリーを灯し、聖歌隊の合唱などのイベントもあった。うちのお隣さんのDさんは当然その部屋を購入してから久しい団地の主のような方で、そんなイベントの役員をされていた。毎月会報が届き、そこに俳句が載っていた。その中に「お花見で、みんなが輪になり、楽しきかな」旨のDさん作があったが、さすがに長年銀行関連のお堅いお仕事をされていた方だけあって、あまりに散文的で、詩趣というか余韻は皆無だったのがほほえましかった。
そうした団地暮らしは、結局そこで暮らすだけの健脚に恵まれなかったせいで、引っ越すことに。
都心でほっこりする
お次は目指すは元町。
三ッ沢での通勤の苦労が堪えて、とにかくフラットで便利な場所に、というのが連れともどもの合意だった。
住んだのは、横浜観光に来られた方であれば、そこに入っている店舗に立ち寄られたこともあるかもしれないマンションである。といってもそこもかなり年季の入ったマンションで、元町商店街入り口に立地していた。ルーバル付きで、柵をまたいだお隣のお年寄りは、そこにメダカを飼っていた。なんでも純和製メダカだそうで、温厚な隣人はメダカにエサをやりながらその講釈を語ってくれた。また、反対側には、ジュリーさんという米国人?女性が住まれており、子供たちに英会話を教えていた。失礼な言いかただが、彼女は背は低く、腰回りの肉付きが張り出すほどで、ちょうどそろばんの駒のようなプロポーションが特徴だった。よくうちの玄関に来てはいろいろな質問をされ、それに私は答えたが、接近されると何か低い位置での威圧感があって閉口したものである。
さて、引っ越しのおかげでこうしていろいろな面白い体験をしたわけだが、なぜ横浜でもオーソドックスな山下町、元町界隈に長く居座ったかと言えば、そのあたりが私の中ではザ・ヨコハマだったから、としか答えが見つからない。もっとも、ご存じの観光地であったため、周囲はブティックや飲食店だらけで生活面では決して便利とは言えなかったが・・。
私は同じ横浜でも横浜駅界隈や、いまメインのみなとみらい、ランドマークタワーあたりには興味がない。そうではなく山下公園や港の見える丘公園、元町公園、フランス山、アメリカ山、外人墓地、といったあたりに漂う少しノスタルジックな雰囲気、黄昏た雰囲気が好きだったからかもしれない。
幸か不幸か、もしその辺りに分譲マンションを持つといっても、億ションがざらで、とても私のような貧乏人にはかなわない。しかもすでにロケーションがいい物件は埋まっており、彼の地で理想を叶えるのは、富裕層でも難しいだろう。
その間隙を縫って、必殺間借り人たる私は暗躍した?のである。
例えばこのような景色はおそらく持ち家派にはお目にかかれないものだろう。
写真は横浜・石川町にある「イタリア山」のブラフ18番館を見上げる景観。
当時の自宅窓からの、文字通りの”借景”ではあるが、こうした貴重な洋館や庭園が臨めるのは、その賃貸アパートメントからでしかないわけで、これもまた賃貸冥利に尽きる経験であった。そこではバラをはじめ様々な植栽が目を楽しませてくれた。
ただし、場所柄当然賃料は高めで、お洒落なアパートとはいえ、40㎡を切る延床面積の中に、よくぞ入っていたとばかりの家財道具を詰め込んでの生活であった。
ここ仙台の今のマンションはその倍以上の広さがある上に、賃料はお安い。首都圏の家賃の高さには驚かされるが、それ以上に、家具やらなんやらを狭い家に入れることは、本気になれば横でなく縦の空間を使うなどの工夫でできるものだということを学んだ。
くだんのアパートは、ベッドを入れるのに巾木の厚さやコンセントカバーの厚みが災いするといった”ミリを競う家”だったが、それも今となっては楽しい思い出になっている。
本ブログのコンセプトはダベリで決定
あれ?
一体私は何を語っているのだろうか?
回顧談?
SUUMOやアットホーム向けの「住んでみました」みたいな投稿?
いや、実を言いますと難航しておるのです。
というよりも、いまだ出航していないのです💦
何が?
このブログがです。
私は2年余にわたってNote(
雨が止んだら=旧「地上的な餘に地上的な」)にあることないことを書き綴ってきました。
それは、どちらかというと世間的にはスピリチュアル寄りの内容が多く、とっつきにくい類のものです。
そんな私がこのような日記風な、随筆風な、はたまた私的な文章を書くとは、おそらく面食らう方もおられるかと思います。
しかし逆にここでNote的なものを挙げても、初見の方であれば、紙(画)面から冷水を浴びせられるようなもので、それはそれでもう逃げ出すしかないものと思われます😝
ちなみに、本ブログは、
「探し物」
「仏教として語られてきた一切を信じない」
なんて、タイトルから察せられるようにごついものからスタートしようとしていましたが、これは一旦削除して、機会があれば再掲することにします。
なぜなら、一種のSNSであるNoteであれば、「おやおや、アイツまたなんだかひねくれたことを言い出したぞ」くらいに受け止めてくれますが、ここではそうはいかないからです
いずれにせよ、Noteとこのブログをどう区分したものかで腐心していたわけですが、なんだか御覧の通りのモノローグ風の”駄弁り”が、このブログにふさわしいのかもしれませんね。当分はそんなラフな感じで行きたいと思いますのでよろしくお付き合いください。
東北人は気質がいい?
閑話休題
ということで、ここで「はじめまして」の自己紹介を書くのも芸が無いと思い、住まいを軸に書き始めたわけだが、この住処という切り口は、存外そこでの人物を浮き彫りにするものである。
たとえば『森の生活』のソローが、それをニューヨークで書けといっても、おそらくは回想録としてもそれを書けなかったろうからだ。
思えば私は2022年初夏に前述の横浜を離れて、現在地の宮城県は仙台市に転入してきたわけで、それにはいろいろな理由があった。
仔細を挙げればキリがないが、一番の理由は「人」である。
ずいぶんと思い切った言い方ですが、東北人は気質がいい。
それがどういうことかは、住んでみれば分かるし、住んでみなければ分からないだろう。
わたし自身は東京生まれで、思春期までを池袋で過ごしたのだが、父母が東北・北海道出身ということで、そちらの方々とのお付き合いもあったうえ、実は仙台市には仕事の関係で20年以上前に数年間住んでいたこともあり、いわゆる「人情」というものには折に触れて接する機会があった。
こう書くと、それではあなたの地元である東京・横浜はどうなの? という質問が来るのを承知の上で書いたわけだが、結論は人間どこにいても同じで、変わりはしないというのが率直な意見である。
ただ、もしあなたが都内かその周辺に住んでおられて、お勤めがやはり都心部であったならばお気づきかと思われるが、そこではその人間性を発露する場が失われ、中にはそれを忘れ、麻痺してしまった方々が多いということだ。
翻って、この仙台はじめ、東北地方に限らず地方のどの駅で降りても、往来を行き来する人たちは首都圏でのそれのようにギスギス、あるいは慌ただしい姿はあまり見かけない。おおらかな雰囲気にほっとするものだから、あるいは人は地方に旅に出るのかもしれないとさえ思えてくる。
もちろん、気質というものは確かにあり、ところ変わればで、それぞれに長所、短所はあるものだ。
しかしそれを考慮したとしても、そんな心を滅してしまうような何ものかが大都会には棲んでおり、地方都市もいつそうなるのかはあずかり知れないところだ。
人物というものは、知識でも、もちろん学歴でも、職歴でもない。
いかにそれが純粋であるか、そこに嘘が無いかで決まるような気がします。
Kは人物でも思想でもなく、ただ道端にある道標だ
さて、長くなるので、ここでは詳細に触れないが、どなたにもあるように、人生にはいくつか自らのエポックメーキングになるような出会いがあるものである。
それが生身の人物であり、また書物の上でのそれであったとしてもだ。
仙台に越してきてから3年目の、つい半年も前のこと、私はクリシュナムルティと出会った。
齢60も後半に差し掛かってからの出会い(と言っても当然書籍やYouTubeなど)で、なぜもっと早くに、とも思ったが、機が熟するにはそうした時間を要するものなのかもしれない。
それは不思議な形でやってきた。
僭越に聞こえるかもしれないが、一瞬にして私の魂は何のためらうこともなく彼のそれと同化してしまったのである。
「そうか、長年俺の求めてきたものはここにあるんだな。少なくとも、ここから始めなければならないんだ」と。
60の手習いである。
前述のように、私は彼について浅学でもあるし、ここでクリシュナムルティ論を云々する気もないし、もちろんそんな器でもない。第一もしそんなものがあったにせよ、彼本人はあの世でその作為を否定することだろう。
彼自身が言うように、人物は重要ではない。
重要なのは、その人物が一体何をかかえているのか、だからだ。
私はこの30年来というもの、数冊を除いて新刊書はもとより、およそまとまった本らしき本を読んでいない。
というのも、別に特段読むべきものが無いからだ。
これは尊大な姿勢からではない。
私自身、「知識というものは真理(というものがあったとして)へ至る踏み台になるどころか、むしろ妨げになる」との自覚があるからで、どんな哲学にせよ、宗教にせよ、受け入れることはなかった。
自分自身が師であり、また生徒でなければならない。
これは、Kすなわちクリシュナムルティが言い出すまでもなく、私自身の見解であり、またそれは個人的なそれではなく、人類がそうあるべきであるとの自覚があった。
クリシュナムルティには「教え」というものがない。
代わりにそのどれもが心に刺さって抜けない多くのサジェスチョンを投げかける。
なぜそうなのかと言えば、人間は自分の都合でそのような考えを構築するからである。
それら思考による迷妄、ゴミを取っ払って、まっさらな、そしてありのままの事実と私たちは立ち向かうべきなのではないか?
私は、よくあるように個人名を挙げて、「○○はこう言っています」とか「○○の見解では、、」といった方便が好きではない。
それが単なる受け売りであるだけでなく、「で、あなたはどこにいますか?」と問いただしたくなるからだ。
何人にとっても、問題は自分である。
他人はどーでもいい。
それら(他人=聖賢や先哲)はいつも都合の良い問題回避の材料として使われる。
彼にとっての主張の権威付けとして使われる。
だからクリシュナムルティをそのように扱いたくないし、また扱えないものである。
人物としてのKは、おそらく普通のKだろう。
KはKだし、私は私、あなたはあなたでいいわけだ。
しかし、私たちが迷ったり、何か大きな問題に分け入ったりするとき、Kは暗夜を照らす灯台のように、また路傍の道しるべのように、俄然その存在価値を示すことだろう。
後記
なんだか、身辺雑記風なものから後半いきなりクリシュナムルティが出てくるわで、脈絡が無い。
それは、自身の意識の流れのまま書き綴ったことによるものだろう。
その意識を「自己」と呼んでいるのであれば、それこそそのどこを切り取っても「自己」であり、また「あなた」であり、さらには「人類」というものなのかもしれない。
こんな私ではありますが、これからも自由に思いつくままの投稿をしていきますので、よろしければ見守っていただければ幸いです。
2 件のコメント:
こんにちは。私は横浜中区の山元町4丁目(森林公園の近く)に2017年か2021年末までの5年くらい住んでいました。
さらにその前の2010年から2013年の3年間、横浜市山元町近辺に住んでいましたので、けっこうお近くだったのですね!
2011年から2年ほど無職だったのですが、その頃はカメラ片手に毎日中区をぶらぶらしながらスナップ写真を撮ってました。元町商店街もよく歩きました(笑)
suho様
こちらの不手際でご返信遅くなりまして大変申し訳ございませんでした。
そうでしたか。
横浜と言えども広いわけですが、なんとまあ、かすめるようにお近くにお互い”棲息”していたのですね。
山元町の商店街やもちろん森林公園にも何度か足を延ばしました。懐かしいです(かみさんの実家がこちら宮城の山元町ですが震災当時同名のよしみで支援などあったらしいです)。
お写真がご趣味とのことですが、Noteの美しい画像もお撮りになったものなんでしょうね。今度横浜の景色をぜひ拝見したいものです。
また寒波とやらで大変ですがご自愛ください。
ありがとうございました。
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