いよいよにならないと

2025年2月7日

桜沢如一 雑感

t f B! P L

 いよいよにならないとやらない。

ということは、普段はそれをやらないということである。

やるのではない。

結局は、そこに普段はやらないと決めている自分がいる。


いやはや、これは完全に私のことであって、大変に悪い癖だと我ながら思う。


思えば、試験勉強や受験勉強がそうだった。

「やらなければならない」ことではあるが「やりたくない」。

(おそらくは、みんなもやりたくないのだろうが、自分に鞭打ってやっている)

どうするか?

今からそれをやっておけば楽であることは分かっている。

しかし、どーにもやりたくない。

漫画や本を読んでいたい。

「よーし、明日からやるぞ」

と先延ばしをする。

計画表を書き換える。

当然そのスケジュールはハードになる。

しかし、そうなると余計やらない。

結局試験前夜の一夜漬け、

それもやったりやらなかったり・・。


もし、似たような癖をお持ちの方がおられれば、共に考えてみようではないですか?

と言っても、ここではそんな「お勉強」についてではなく、ある健康法について考察してみたい。


優れたものの落とし穴


私はある健康法を知っている。

それを自身で体験して、その効果も目に見えて著しいことも知っている。

それは過去に何度も経験済み、折り紙付きである。

その方法は、これまで別なところで散々書いてきたことなので、ここでは簡潔に述べるにとどめるが、それは桜沢如一がまとめた「正食」である。


玄米と少量の水分のみを基調にした食事法で、陰陽の東洋哲学がバックボーンになっている。


しかし、それをやらない。

良くなることを知っていながらそれをやらない。


なぜなのか?


常の身と兵法の身の分離


一つには、その健康法に絶対の自信がある、という驕りがあるからだ。

そうとう(身体の調子が)悪くなっても、それによって治せるという自信だ。

しかし、それは裏返せば、悪くなってもギリギリまで放っておけ、という放縦につながる。

つまり、”いよいよにならないとやらない”と言うのは、そこで”いよいよになったらやればよい”と、高をくくっているわけである。

その”いよいよ”が死の一歩手前を指すのかどうかすら曖昧であるのに。


もう一つには、その健康法を励行することで、生活のリズムが激変し、少なからず周囲への影響があるということ。

ということは、それ自体、平常な行為ではないということを物語っている。

もっとも、では、そうでない日常の一般食が果たして身体に良いモノなのか否かはいったん置くとして、我々は自らの嗜好で食事を選択している者が大勢を占めている事実は否定できない。

その意味での一般食であり、その中にあっては異端ともいえる「正食」である(本来であれば、それは本末転倒である、という”正論”も脇に置こう)。


《兵法の身において、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要》宮本武蔵『五輪書』



いみじくも宮本武蔵の述懐を無視して、そこには当然、平時と有事(この場合病)との確執がある。

私が、「よし明日から正食をするぞ」と宣言して、いきなり肉も魚も刺身もはんぺんも、ビールもワインもお菓子もコーヒーもなにもかも食べません、となることは家人にとっては大きなストレス以外の何ものでもないわけである。

いや、たとえ伴侶にそうした理解があったとしても、友人知己との会食なども味気ないものとなるだろうし、つまらない思いをさせることにもなる。


さらに加えてどうやらもう一つ、厄介な理由がある。

それは「事大主義」という思い込みだ。

というのも、その「正食」は、オーガニックな野菜や調味料を使った自然食といったレベルではなく、なかなかに厳格な食戒を厳守しなければならないからだ。

むしろ断食に近い。

つまり、それ自体が普段の食生活から遊離したものになっている。

それは、さながらその「健康法」を絶対視するあまり、平素はそれを神棚や仏壇に祀っておいて手を合わせているだけ、といった次第である。

「伝家の宝刀を滅多やたらには振り回したりはせぬぞ」

といったような、、。


と、まあ「やらない理由」を3つほど挙げてみたわけだが、なんだか気持ちが落ち着かない。


本当にそうなのだろうか?

事態が予断ならない場合であれば、四の五を言わずそれに取り組むのではないか?


ということは、危機意識に欠けるそれは単なる「言い訳」に過ぎない。

このような「言い訳」を自分に許し、いくら偉そうな理論を振りまいても説得力に欠ける。

つまり、自分は外にはたいそうなことを言いつつ、自らをコントロールできない(あるいはしない)男だ。


さらにその「言い訳」に尾ひれを付け加えれば、私は実際の食養生ができないのを隠すために、上記理由を盾にしているのではない(ホントですよ)。

というより、そんな外野のしがらみが無ければ、ぜひともまたやってみたい。

それは、確かに様々な飲食の規制で最初はストレスのようなものもあるが、一方で心身脱落の快感も伴い、日に日に自身の身体が浄化してゆくのが分かるものである。

そうなればしめたもので、次第に悪いものを身体に入れたくない、という意識に変わる。

変わるから、自ずと健康的なものを要求するようになる。


・・・という羽化登仙の三昧境をどこか先の未来に想定している。

それまでは、またぞろ娑婆の悪食大食酒池肉林の世界で大いに虚しい宴を続けようではないか、と。




葛藤の世界、常の世界


断酒しようとすればそれができないように、

禁煙しようとそのことに傾注すれば片手が自然にシガレットをまさぐるように、

何かを止めようとすれば、そうさせない力が加わる。


まさにそれは葛藤そのものの構図である。

酒や煙草以外にも、その葛藤は外面的にも内面的にも数え上げれば際限がない。


ということは、何ごとかを止めるという行為そのものを疑わなくてはならない。

なぜ、それを止めようと思うのか?

止めなくてはならないのか?


ことが酒煙草といったような自己完結で終わる類ならまだしも、それが万引きなどの犯罪であれば、これは由々しき問題である。


いずれも当人は悪いということは知っている。

だから「それは悪いことだからやめなさい」といった助言は無効である。

悪いことと知っていて止められないのだから。


だから行為を責めてはならない。

たとえ万引きが悪い行為であったにせよ、悪い(偏っている)のはその行為に及ぶ心理であり、万引きはあくまでその結果である。


行動に先立って心理や思考がある。


正食という行為がいかほど優れたものであったにせよ、それをここで持ち出さなければならないということは、それは何か「特別な」メソッドであり、修練の一種であるのに違いない。そこには「やらなければならない」という前提がある。


だから、それが武蔵の言う「常の身」であったのであれば、普段が「正食」であるから、あえて「正食をしましょう」とか「正食をしています」などという必要はない。よって、そこには「やらなければならない」は不在である。


いかがだろうか?

前者は葛藤がある世界。

後者は葛藤が無い世界。


一人の病人もおらず、健康が当たり前であれば、健康法などとあえて取り沙汰されることもないだろう。

正食がもし「健康法」であったのであれば、それは不健康が基盤の社会のなかで初めて光るものであるし、価値をまとうのだろう。


正食はさらに一歩進めて、それが当たり前で、その言葉すら存在しないまでにならなくてはならない。


そこで一つの疑問が湧いてくる。


医者がもし病を治すためのものであったとき、それは燃え盛る炎に水を注ぐような行為であって、その水は病という症状にのみ有効なのか? ということである。その水で炎という病が癒えたら、もう不要なわけで、あるいは次なる炎が舞い上がるのを待つだけということになってしまう。


いや、一度では頭に入りにくいかもしれないので、別な言い方をすれば、病という病症があって、それを消したり癒したりすることを、「医学」──少なくとも主流のそれ──と呼んでいるが、仮に病が絶対に生じることがないのであれば、医学も医者も不要ということになるではないか?

犯罪が無ければ警察も不要であるのと同様に。


昨今、「未病」という言葉をよく耳にする。

まだ症状として病が現れないうちに治しましょうという意味らしいが、それが可能であれば苦労しないだろう。しかし、それでもまだ上記のような確執からは逃れられない。


つまり、医学や健康法というものは、病が生じることを前提としている。

(桜沢はそれを「敗北者心理」と喝破している)

果たして、病というものは自然に生じるものなのか?

もしそうであるのならば、そこでの健康法とは何なのか?


私たちは、(病が)生じてしまってから、(犯罪が)起きてしまってから、はじめてそれをどうするのか? という対策に回る。

それは後手後手ではないか?


それらを未然に防ぐ、いや防ぐのではなく絶対に惹起しない「法(プリンシプル)」、理想や空想のそれではなく実際の「正義」というものが無い限り、この世が無法地帯になるのは当然であり、それは可能不可能を超えて厳粛に私たちの前につきつけられた真理のように思える。



つぶやき

この世で、優れたもの、価値のあるものを手にするということは、どうしたことなんだろう。

それは葛藤を手にすることではないのか?


飛び切り美味い饅頭を口にすれば、その辺で売っているものが不味くて食えたものではなくなる。同様に、最高のもの、至高の宝を手に入れたものは、なんとこの世がつまらなく、煤けた景色に見えることか・・。


思えば、そうしたものを人は求めてこそいるが、いざそれを手に入れたときから人の不幸は始まるのかもしれない。

(地位や名誉、カネ、権威、豪奢な不動産、高級車、愛人・・・)


ということは、このまま、ありのままの自己、そして世界こそが実は(理想主義者や夢想家が言う)「天国」そのものなのかもしれない。


そう、そこに「やらなければならない」ことなどどこにもない。

だからそれを、やってもいいし、またやらなくともいい。




※「正食」および東洋医学について以下のNoteにまとめています。

参考になるかもしれませんし、ならないかもしれません。

         

このブログを検索

Archives

Translate

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

QooQ