昨日、退院してきました。
そうです。
私について若干ご存じの方にとっては、すでにあってはならないご報告です。
(私について理解されておられるごく一部の方々にとっては驚きを通り越して落胆?を禁じ得ないことかも)
退院ということは、入院していたということ。
八日間ほどの入院生活で、実に幼少期に扁桃腺摘出手術をして以来のことである。
このことは、つまり多くの者がそうするように、何らかの不可避的な病を前にして、自分の命を他の誰か(医師)に預けたということ。
自分自身の師であること
をいかにも一家言であるかのように唱えてきた過去の私は偽物であった。
羊頭を掲げて狗肉を売る、といった詐欺師以外の何ものでもない自分がそこにある。
まあ、実際は、これまで自分の考えを大っぴらにしたことはまずないし、noteで私見を披歴したくらいであるから、大勢にほぼ影響力がない自分がそんなに恥じ入ることもないと言えばそうなのだが、それでもその考え方に共鳴された方にとっては裏切られた感はぬぐえないだろう。
もちろん、この度の件に関しては「謝罪」などはお門違いだし、ここは正直に自らの恥ずべき行為を記載するにとどめたい。
私は現代医療を受容したわけだ。
もちろん、いまだマクロビオティックに息づいている東洋医学・哲学の精神を捨てたわけではない。
循環器系の割合厄介な病に罹患した私としても、マクロビオティックトリートメントとしては最右翼の生姜シップ→里芋パスタという大変に手間暇かかる療法を向こう一か月以上も、連れを巻き込んで実施した。
ここでは詳述しないが、ご興味のある方は調べて見られるといいかと思う。
その達効は素晴らしいものがある。
しかし、問題は実にそこにある。
おそらくはどなたにも一つや二つ「推し」の何たるかはあるのではないだろうか?
それを推すには、それ以外の何かが気に食わない、間違っている、納得いかないといった否定がありはしないだろうか?
いや、あってもいいだろう。
しかし、個々のそれを否定し、退けることで全体を切り捨ててはいないだろうか?
東洋医学、とりわけ「食」に着目した石塚左玄や桜沢如一らの卓見は、そこに見られる陰陽哲学のようなバックボーンを持たない西洋医学を凌駕している。
しかし、今日私たちが目にするような手術、投薬、大掛かりな医療器材の投入といったすべてが単にコケ脅かしなのかと言えば、そうではないだろう。
また、今日のようなせわしないライフスタイルで、やれ漢方です、東洋医学です、ご飯をよく噛んで、一口百回は噛みましょう・・は成り立ちがたい。
出来ないのではなく、多くの者にはそうまでしてやる価値が分からない。
残念ながら私の取り巻きもそれを理解することは出来なかった。
不思議なことに、私に縁があった者はほとんど東洋の陰陽哲学については不明だった。
目に見えるものに頼る。
それを西欧流というのであれば、それも一理あるだろう。
桜沢も、西洋医学の即効性、スピード、実証主義を敬愛する、的な発言をどこかでしていたものだ。
私は、ここにきてもはや「成り行きに任せる」路線に宗旨替えしたのである。
連れが言うならそうしましょう、的な。
いや、取り巻きのほぼ全員が(当然ながら)西洋医学以外の選択肢を持たない”普通のアタマ”の持ち主であったとき、これを説得することは不可能だし、論駁することも無理であるうえに、当然人間関係そのものにひびが入るリスクすらある。
あれほど蛇蝎のように嫌っていた朝、昼、晩の薬漬け医療に身を任せつつ、これを書いている。
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