ああ無情 【心より慕いしものと別かるるの記】

2025年10月10日

お知らせ 身辺雑記

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嗚呼、別れとはかくも悲しいものなのか。
一言で「別れ」といってもいろいろあれど、半世紀ものあいだ、朝に夕に実にぴったりと連れ立ってきた伴侶との別れほど骨身にこたえるものもそうはない。

嗚呼、それにしても、なぜにかくまで婉曲な言い回しになるのか?
それは、ズバリ単刀直入に申せば、あまりにもあっけないからである。
しかも、それこそ身勝手、身から出た錆、身の程知らず? の茶番に過ぎないことであって、特筆するまでもないからだ。

別れと言っても、長年連れ立った糟糠の妻でも、愛犬など愛玩動物との死別でもない。
(・・・)何のことない、禁煙のことです。
愛煙家がタバコとの別れを騒いでいるんです。
ほーら、詰まんないでしょう?
よくある話でしょう?

それを世間ではやれ「禁煙外来」と騒いだり、「No smoking」とか、「タバコ、やめました」とかがもてはやされ、ときに賛辞が贈られるのだが、冗談も休み休みにしていただきたい。

なるほど多くの方々が、「タバコは悪」と認識している下地が有るなかで、そのタバコから離れることができたということは、快挙であり、おめでたいことであるのに違いない。
しかも、その「悪」から抜け出すには、さながら反社会的な組織から抜け出すのが時に大きな困難を招くのと同様、勇気が要る行為であるとして、下手をすると「禁煙」は社会から賞賛されることになる。

そもそも「悪い」とあなた方が認めている喫煙行為を、あなたがたの忌み嫌う「副流煙」渦巻く暗黒世界で暗躍してきた張本人が、それをやめたからと言って、一転して「善人」になることはあり得ない。
第一私が認めない。
悪人でケッコーと言っているのである。

おっとー、「タバコをやめます」といったような、およそ多くの方々にとっては愚にもつかないような話題を、”伴侶との別れ”という比喩でもって言い放ち、語気を荒げてあえて取り上げる私の性格の狭量さ、人間のちっぽけさをお笑いになったり、不可思議に思われたりする方も少なからずおられるに違いない。

それでケッコーと言っているのである。

もう一度、この投稿の冒頭部分をお読みいただきたい。

──半世紀ものあいだ、朝に夕に実にぴったりと連れ立ってきた伴侶との別れ

と書かれている。
半世紀の重みをあなたは理解できるだろうか?
50年間のことである・・
いや、そんなことはどーでもよい。
それをアタマで理解することは可能だろう。
しかし、肉体で、生理的に理解できるだろうか?
「味解(みかい)」という言葉があるが、まさにそれである。

無論ほぼそれは不可能である。
身体は50年の重さに自動的に反応してしまう。
そう、学名「ニコチアナ・タバカム」(←煙草のことです)のスピリッツが、そうたやすく許しはしない。
何せ、貧乏学生ではあったものの、大学時代からタバコは我が人生の半分を占めた。
当時一番町にあった喫茶店での夕刻からのおいしいバイトのおかげで、この無頼気取りの男は、その全収入を喫煙趣味につぎ込んだのだ。
下記の煙草ティンのキャプションにあるように、思えば高級煙草であったダンヒルの『マイミックスチュア965』と同格のおっそろしく激渋煙草を偏愛していたわけ(ケッコー、その銘柄はそうした向きに人気があったことが今にして伺われます)。


二コチアナ(花煙草)の花弁
=夜になると芳香が漂うそう


学生時代に目覚めたパイプ喫煙ではあったが、
それに深入りした原因の一つはこの『バルカン
ソブラニー』という英国製ミクスチュア煙草に
ある。この不良学生の居住する部屋は、常に
この煙草の燻臭が漂い、おそらく百をとっく
に超える数の空き缶の山が積み重なっていた。
調べてみると、今では銀座の菊水のような老舗
ですら、その復刻版がごく稀に入荷できるよう
な幻の煙草という。実に懐かしい。

そんなこんなで、仔細をマニアックに綴ったところで面白くないでしょうから省きますが、社会人になってからというものはさすがに悠長にパイプ喫煙はままならず、紙巻に落ち着いたわけで、それでも日に20から全盛期は60本ほどを煙にしてしまうようなヘビースモーカーではあった。

愛煙家であれば思い当たることだろうが、一体日に何回タバコを手に取ってそれを弄ることか。
自分の過去を振り返っても、最低20回を下回ることは無かったろう。
実に50年間、ほぼ毎日のことである。
しかも、すべてにおいて着火して、その火を育て、消火にまで及ぶ作業が付きまとう。
一体世の中にかくも人の手を煩わせる個体が存在するものだろうか?

そのタバコは、何十年ものあいだ「不良」「悪」「病」の代名詞としてやり玉に挙がってきたわけだが、例えば主演ドラマでも喫煙シーンを憚らなかった俳優の故・松田優作に見るように、彼自身が一方ではカリスマ的に愛される存在でもあることからも推察できるように、人間の心情の機微というか二面性を物語っているようだ。

アイヌ民族やインディアンといった嘘をつかない純粋性を堅持してきた民族が、煙草を愛し、神聖視してきたことを想起して欲しい。
最も戦争を排した民族が、人の心の奥底に灯った騒乱の炎を鎮火させるように煙草を扱ってきたことからも、もはやタバコが身体にいい悪いといった議論を超克した事実がそこに横たわっているのではないか?



あれ?
おやおや、話はついつい脱線してあらぬ方に行ってしまったようですが、
要は、その愛する煙草を人生初に止めざるを得ない局面に私が立たされたんだとさ、といった私的でつまらない問題に立ち戻るわけで・・。

私の病(循環器系=心臓)には、タバコが悪いというよりも、確かにタバコが積極的なトリガーとなって生じてしまった節がある。
イコールタバコが悪いという論法には加わらないものの、医者が見せる臨床例には確かに説得力があったうえ、どうやら少なくともそれを癒すには、元(タバコ)から絶たねばならないのは間違いないようだ。

酒であれば、過去に3か月間禁酒したことがある。
しかも、今回はすでに半年間以上もアルコールを入れていない。
平気である。
タバコごときで動じる私ではない・・だいたい、入院期間の8日間、よくぞ禁煙出来たものだと我ながら自画自賛する(しかし、退院後の一本を内心愉しみにしていたわけで・・)。

退院後の私は・・というと、これがまたバツが悪い。
嗚呼、思いっきり”中坊の隠れタバコ”で、身内に何度嘘をついたことか

・・恥ずかしながら・・

「いや、自分は吸ってないのであります」
「たまたま、吸い残しの”シケモク”を見かけて火をつけてしまったのであります」

と、バレバレの嘘にまみれた言い訳が、山の神に向けて一週間ほど続くといった体たらく・・。
アタマでは禁煙できても、身体は思いっきり吸いたがってるわけです。

で、ようやくこの一週間というものどーやら完全禁煙に成功したので、この項を書いた次第。
恥も外聞もない。

私のパイプコレクション(一部)=歴史の古い英国製
通称スリーB(BBB)パイプが比較的廉価で私の好みだ。



ひとまず先回の記事を思い出していただきたい。

ひとは自分自身の医師でなくてはならないし、それどころか師(教師)そのものでなくてはならない

実に立派な、見上げた志ではないか?
長い間、陰に陽にそんな意識で人生やってきた。
どーやら、それがこの私であるらしい。

独立独歩、他の権威に依存しない生き方・・とかなんとか、後付けで講釈を貼り付けることは容易だろうが、これ、実はシンプルっていうか、別にそんなたいそうな心掛けでも信条でもない。

なぜなら、野生の動物は誰に習ったのでもなく、そんな生き方を生きているからである。
大自然で生きていくうえでは・・と大上段に振りかぶらなくても、生きるということはそんなことで、誰に言い訳をするためでもなく、強いもの、知恵のあるものが生き延びて、そうでないものは淘汰される。

ただそれだけのこと。

だから、私がそのような信条と共にあったとしたところで、別段偉そうなことを申しているわけでもない。
よって、そうした心掛けを掲げながら、その実、真反対の行為をしたからと言って、それを「羊頭狗肉」(言っていることと実際に矛盾、開きがある)と責めるまでもないことなのかもしれない。

別にここで責任回避? や言い訳をしようというのではない。
したところで意味がないし、ひとり芝居に過ぎない。
むしろそうした当たり前な生き様に、何らかの価値観を着せたがる自分を責めているのだ。

そうして、いよいよ幕が上がるのと同時に、私の主張・自我がおそらくは叫びたがるのではなかろうか?

陰と陽は一つだよ、とか何とか。

だから、どうしても最終的には東洋哲学に行き着くのだ、それは同時に、他の方法論ではアカンよ、と暗に言っていることでもある。

(いつまで続くのかは不明だが)およそその「東洋哲学」とは対極の「現代医学」をとことん受け入れてみた今回の私の行為は、少なくとも上にあるような二面性、二元性へのレジスタンスであるとは言えそうだ。




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