食におけるこだわりと無関心の是非
50を過ぎて初めて分かったことの一つに、新たなる食の境地に目覚めたことがある。
──とはまあ、大げさな謂いだが、要は滋味というべきか、風味というべきか、ようやくその辺の味覚に目覚めたということかもしれない。
もっと平たく言えば、すっかり爺さんになったことを認めざるを得ないということだ。
というのも、その辺の年代(50代前後)というものは微妙なもので、自らの老いを認めるような、また認めたくないような端境期にいるせいもあってか、どーも釈然としないからだ。
しかし、齢も60を超えて、私のように70の声が届きそうになるころ、あるいはそれ以上の歳ともなると、もはや腰はすっかり据わってくるもので、はっきりと嗜好が表面化してくる。
すなわち、私の場合で言えば、別段珍しくもない家庭料理、それもトラディショナルなそれの中に、えも言われぬ旨味というか、味わい深さを見つけるようになるってことである。
具体的には、例えば漬物であれば、糠漬けから始まって、鉄砲漬けとか、たまり漬け、沢庵、奈良漬け、味噌漬けなどに妙にこだわってみたりするのもそうであろう。
また、弁当などになれば、いわゆる副菜の一品に、「キャラブキ」や「ゼンマイと油揚げの煮物」、アサリなどの佃煮、錦松梅など古風なふりかけ、場合によっては無添加の「野沢菜」や「高菜漬け」などが添えられているシーンが好ましくなってくる。
当然、メインディッシュを鮭の塩焼きや西京焼きなどに譲るのはよいとして、次第にハンバーグやら、すき焼きの残りやら、天ぷらですらご遠慮願いたい”お年頃”になってくるってーわけ。
もちろん、私などもかつ丼をワッシワッシ平らげたいという”余力”はいまだ残ってはいるものの、全体的に前述の「枯れた風味」とでも言えそうなものに惹かれるようになってくるから不思議なものだ。第一、そんな嗜好は若いころには決してなかったものである。
なぜ味覚の話をするのかというと、人は食に関してははっきりと千差万別な嗜好が正直に現れるものだからだ。
やたらこだわるものもいれば、ひどくあっさりしており、なんでもいいという手合いもいるから面白い。
どちらがどうともいえないが、
①こだわりは、とらわれでもあるし、執着でもある。それゆえにある程度自由を犠牲にすることから、決して褒められたものではない。がしかし、何の道であれ、それにこだわるがゆえに深化し、掘り下げてゆくことが可能になるわけである。その意味で、食に関して一家言を持っていることは、大げさに言えば、いわば文化を牽引するようなことであると言えなくもない(個人レベルであろうが大衆レベルであろうがである)。
②一方、こだわらない輩というものも確かに存在する。食い物ごときは何でもいい。例えばランチをマックで摂ろうと決めたのであれば、別に一週間それでもいいといった手合いだ。彼がもし妻帯者であって、その妻が丹精込めた料理を口にしても無関心・無反応であったとすれば、彼女はいったいどこにその愛情を注げばいいのだろう。
![]() |
| 「こだわり」は、果たして善なるか悪なるか? |
生きてるだけで上等なんだよ
さて、唐突ですが「山田五郎」という名をご存じだろうか?
この一見キューピーめくイラストを見れば、思い出される方も多いかと思うが、私も数年前から時折YouTubeで見かけるそのどちらかというと可愛らしいお顔と共に、その名は知ってはいたものの、どんな人物なのかは知らないままでいたものである。
その彼が、彼のYouTube番組(↓)でこんな発言をしたのだ(8:35 五郎&ウリタニの訪れたい場所)。
女性ナレーター・ウリタニとの会話で、世界で訪れたい場所に触れた際に、彼はこう言った。
「俺はどこも行きたくないな。ここがいいよ」
そのあとに、別府温泉の湯治場を訪れている夫婦のエピソードに触れた。
その奥さんの方がガンで抗がん剤治療をされており、その奥さん曰く、「こういう風になると特別なことは何もやりたくないし、欲しくない。日常的なこと、日常の暮らしができていることが一番うれしい」とおっしゃってたんだけど、今の俺はその心境なんだよ。
「普通に生きてて、普通に飯がうまく食えて、よく寝れてりゃ、それが一番よくて、何か特別なことをやろうって気が起きないんだよ。どこかに行こうとかじゃなくて、もう生きてるだけで上等なんだよ」
↑【神回】「ココが一番イイんだよ♡」病気になって初めて気付いたこととは!?=【公認】オトナの教養CH【山田五郎切り抜き】より
最近、私はこの言葉が深く沁みました。
自分が比較的大きな病を患い、入院したことも確かにあってのことだろう。
しかし、私はそんなことではなく、新たに動き出すことよりもここ(現状)に留まるという姿勢は、老いというもののなせる業ではないか、と思うのだ。
なぜ、ここを離れて何ごとかを成そうとするのか?
成さねばならないのか?
ここが最高で、これ以上のものがないくらいに満足しているのであれば、後はそれ以上に何を望むというのだろうか?
過去に、つまり若いころから「無欲恬淡」などという言葉を使ったことがある私ではあるが、味覚も旦味を好むようになり、文字通りの「老境」に一歩入る年齢になってはじめてその語句の意味が分かった気がする。
それは、決して「欲をそぎ落とした枯淡の境地」を目指すものでも、意識するものでもないということ。
それは、実に今あることに全幅の信頼を置き、全身全霊で満足している境地である。
そこに俗っぽい、ありきたりの「欲」など去来しまい。
何でもござれに見えて実は一事にこだわり抜く生き様
一昨年だったか、山田五郎さんが、実は先般他界された森永卓郎氏と同様の「原発不明がん」に罹患しており、抗がん剤治療をしていることなどを、自身が明らかにされたことで俄然世間から注目されるようになったわけだが、私もご多分に漏れずその一人である。
とはいえ、単に森永さんと同じ難病と勇ましくも闘っている・・ということだけでは別段注目することもないのだが、私をして彼に刮目させられたのは、まさにその”同時代性”と言いますか、彼の携わってきた仕事、もっと言えばカルチャーあってのことだからなのかもしれない。
山田五郎さんは長く講談社の『ホットドッグプレス』誌の編集長を務められた経歴の持ち主で、その後フリーのコメンテーターとして活躍、とりわけYouTubeでは画家や絵画の知られざるエピソードを検証する『山田五郎 オトナの教養講座』を担当、人気を博している。
その証と言っては何だが、氏はつい先ごろ『第十七回伊丹十三賞』を受賞されたばかり。
上記YouTubeの映像中でも本人が語っているが、いやあ出るわ出るわ、同時代ならではのカルチャー、ムーブメント。
ピンクフロイド
原子心母(このアルバムジャケットの和訳タイトルの?感)
ジェネシス
アンディーウォーホール
ヴェルベッドアンダーグラウンド
ニコ
ルーリード
ムーディーブルース
キングクリムゾン
ロバートフリップ
プログレ(プログレッシブロック=にはついに馴染めなかったなぁ)
ジャケ買い(レコード盤をジャケットの好みで購入すること)
・・・
まあ、こんな固有名詞の数々に心ときめく読者もおられるかもしれないが、それはとりもなおさず同時代的な山田五郎フリークと重なる。
私はファッションやサブカル系では、当時『MEN'S CLUB』と『POPEYE』のあまりにも正統的な読者であったことから、五郎さんの『Hot-Dog PRESS』はあまり手に取った記憶はない。
ただ、私も(商業誌ではないものの)若いころに、なんだかんだ20年ほども服飾雑誌などの編集を経験したことから、締め切り前のその超絶的な(というよりも絶望的な)忙しさというものは経験済みである。
よって五郎さんの多忙は想像に余りあるのだが、とりわけ彼の携わった商業誌は、衣食住を中心に、セックスからファッション、クルマ、といった若者のライフスタイル全般まで網羅しており、一見軽佻浮薄に見えても、なかなかどうして相当な気合が無ければ務まらない畑だったろう。一本骨が通っていない限りとん挫すること必至だ。
で、彼のYouTubeを見てまず第一に感じるのは、その折り目正しさというのか、筋の通ったところだ。
まず、全身をスーツで包み込み、ワイシャツにネクタイというスタイルが好ましい。
口調がまたいい。
べらんめえ口調ではないものの、「○○なんだよー」と妙に説得力のある話し方をされる。
しかも論理的に積み上げてゆくような構成は、やはり編集畑にいたせいなのかもしれない。
彼の魅力については、伊丹十三賞の選考委員であり、私も好きな南伸坊さんが、その授賞式で述べたスピーチを参照してもらうとして、以下に挙げたお三方に共通なものがあると私は見ている。
もちろん、山田五郎氏との切っても切れない関係性がそこにある。
それこそが、何を隠そう「こだわり」である。
さらには、妥協・忖度の無さである。
徹底して一つのことにこだわり抜く姿勢は実に3人に共通するから面白い。
付録 男前だよ全員集合
最後に、どちらかと言えば余談になるだろうが、山田五郎氏は、若いころ相当なイケメンであった。
いまでも、あの眼鏡を外した顔が時折覗かれることがあるが、ちょっとその片鱗(と言っては失礼だ)がうかがわれる。
これは、私の幼少時代によく買い食いした池袋の洋菓子店・タカセの包み紙を描いた洋画家・東郷青児の美貌にも匹敵する? ほどかどーかは置いておいて、ほぼ同時代を生きた私としても、ぜひ五郎さんには今後とも頑張っていただきたいと思う次第。
いや、頑張っていただかないと私が浮かばれないからである。
![]() |
| 東郷青児(1916) |





0 件のコメント:
コメントを投稿