僕らは一様にふと思うことがある。
「今、ここでこうしているのはなぜだろう?」
「なぜ、ここにいるんだろう」
あなたも、そんな思いに浸ったこともおありかと思う。
これらは別に突飛な感慨ではないし、もちろんいつまでも脳内で燻っているような問題でもない。
ふとよぎっては瞬時に忘れるうえに、たいして気にとめることもない。
(そうはいっても、現にこうしてここにいるんだから、ま、いっか)
私は、輪廻転生説を信じないので何とも言えないが、上記の感慨は、どーにも時空を超越しているような気がしてならない。
というのも、例えば数千年前に、どこかの誰かが、今の私と同様な言葉を吐いていたとしたらどうだろうか?
もちろん、そのどこかの誰かは、今ここにいる私(もしくは、そこにいるあなた)にとって未知の人物だろうし、性別や年齢も異なることだろう。
しかし、その人物は、確かに「私」として意識しているに違いない。
では、その人物が意識している「私」と、
この、今ここにいる人物(私やあなた)が意識している「私」と、
いったい何が違うのだろうか?
さらにそこに持ってきて、「今」という同時代性というか普遍性。
どなたかも言ったし、私もそう思うのだが、「今」こそが永遠ではないだろうか?
永遠とか、永劫とか、無限、無窮・・
すなわち、この世ならざるもの、限りなきものは実に「今」という一言に集約されてしまうではないか?
「今」
それは一見、瞬間を切り取ったような言葉に聞こえる。
しかし、その「今」が継続して「時間」という仮想概念が生じる。
時間なんぞは存在しない。
もしそれが在るとしたら、それは「過去」という亡霊である。
過ぎ去ったものをここに取り出せと言っても、そんなものは存在しないからだ。
ただ在るのは「今」のみ。
このようにして、「今ここにいるわたし」は、永遠のバックボーンを背負っているのかもしれない。


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