しかるべき人物のバイオグラフィーなどを当たってみると、「幼少時代は色濃い宗教的な環境に育った」などと、よく出てくる。
大概は欧米の著名人のそれであることから、両親などのいずれか、あるいは双方が敬虔なクリスチャンであった、などというケースが多い。
そういう環境で育った少年は、比較的感受性の豊かな、また悪く言えばセンチメンタルな性格である場合が多い。
彼は、当然そうした親の影響を強く受けつつ、より清廉潔白で信仰心の篤い人士として成長する。
またはそうなるように嘱望されている。
しかし、もちろんそうあることから逸脱して、あらぬ方向に行きついてしまう事例もある。
極端な例で言えば、”世界一邪悪な男”なる称号を戴いた破天荒な魔術家アレスタ・クロウリーや、有名な「神は死んだ」のフリードリヒ・ニーチェなどと言った”反キリスト”の場合がそうだ。
彼ら”異端児”らが、ほぼ漏れなく厳格な宗教的な家庭から輩出された点、特筆に値する。
正確には「宗教的な環境」とは、何も朝夕にミサを唱えたり、食事前にお祈りを、就寝前にバイブルの読書を欠かさないとかいうことだけではないように思う。
また、家が「〇〇教」など新興宗教の団体に加入しており、それこそ四六時中太鼓やらリンやらを叩き、線香の臭いが絶えないような環境もあるだろうが、もちろんそれだけでもない。
最も一般的なそれは、半信半疑ではあるものの、本人は薄っすらとスピリチュアルな世界の存在を認めている状態を指すのではなかろうか?
日頃信心などないうえに、取り立てて「死後の世界」や「霊界」などに関心はないが、そうした世界は否定できないと考える。
「壁に耳あり障子に目あり」や「因果応報」など目に見えない世界がこの現世に何らかの関与をしているのではないか? と考える。
僕らの世代は、むしろそんなこの世とあの世が一体となったような世界観が一般的だったように回想するが、今ではそうした「目に見えない世界」は現実世界とは完全に隔絶されてしまった様に思われる。
だからこそ、スピリチュアルがもてはやされるのだ。
本来、わが国のように「神道」という惟神(かんながら)の道にあるものにとって、あらためて「スピリチュアル」がクローズアップされること自体、奇異なことではあっても日常的とはいえない。
昨今のブームは、それほどまでにスピリチュアルから離れてしまった証左と見ることができなくもない。
この意味では、とんとスピ系に関しては音痴に見える孔子が言うように、「怪力乱神(かいりょくらんしん)を語らず」に分があるように思える。
つまり、「見えない世界」「はっきりとは分からない世界」について、いかにもたった今見て来たように語る昨今の”にわかスピリチュアル”はいかがなものか、ということだ。
いや、もっと直截的に言えば、
昨今のスピリチュアル界隈に蠢く人物には、
中身がない
ということだ。
で、その背景には、
嘘がある
わけで、
なぜにそうした嘘をつかねばならないのか、と言えば、
その人物が、
カネ(物欲)と名誉欲
にまみれた曇った心を持っているからである。
つまり、いやしくも神仏を語る器としては論外なわけだが、そんな連中が7割ほどを占める。
なぜそんなことになったのかは、もはや論を俟たない。
現代社会では
カネこそが神
だからに他ならない。
この世界で真に「神」を語るものは、まずいない。
ありふれたハリボテが換骨奪胎され、
それを称して「神」と言っているのだから世話がない。
さらに悪いことに、それを有難がって拝み倒すようなメシイたものが大勢いるわけで、もはや何をかいわんやである。
私の場合、物心つくころから空気のようにスピリチュアルがあった。
小児喘息はじめ、病床に就くことが多かった少年時代、世界各国の文学全集を読むことが楽しみで、そんな世界と現実がシンクロし、そこに垣根がなくなっていたこともあるだろう。
また、母方の叔母にそうした精神世界や四柱推命学など占断に造詣の深い方がおられ、幼いころから当たり前にそうした世界の話を小耳にはさんでいたことにも影響されてきたのかもしれない。
叔母は「お琴」の世界でも師範として活躍された方で、しょっちゅう上京されては、当時都内にあった私の住んでいた官舎を訪れてくれた。
ウチでは、なんというか家族や取り巻き全員が信者ではないものの、ある種の畏敬から、その方の言説に従うような風潮があった。
どこのお宅でもそうなんだろうが、一家の家風を左右するのはそうした精神的な指導者であったのに違いない。
私は、その叔母が信奉していた占断や、姓名判断、墓相学の一切を信じなかったが、聡明で優しく接してくれたその叔母は好きだった。
また、叔母としても(おそらく精神的な方面で割合造詣が深かった私に)一目置いてくれていたように思える。
さて、表題の「○○○○嫌いな理由」であるが、すでにそれは書いたようにも思える。
繰り返しになるが、一言で言えば、それがほぼ
嘘
であることからではあるが、なかには、嘘ではないものの無意味な場合も多い。
特に、
予言
の類には、私は一切かかわらないことにしている。
昨今、スピ系を齧った人の間でよく話題に上る日月神示にせよ、
大峠
がどうしたというのだろうか?
大峠は大峠である。
岡本典明にせよ、出口王仁三郎にせよ、
丑寅の金神にせよ、国常立尊にせよ、
私は信じない。
少なくとも私はそうした世界と40年以上も関わってきた。
そのうえでの結論である。
それらはどれほど徳が高かろうが神霊ではないか?
個人が神霊を信じようが信じまいが、
その言説に一喜一憂しようがしまいが、
大局から見れば、どーでもよい話である。
もちろん、私はそうした神霊を蔑視しているのではない。
本物であれば、そうしたことを超越しているものだから、
逆になんだかんだ言挙げして、霊験だとか、神徳だとかを誇示しないものだし、まして未来の青写真を披歴したりはしない。
そう思うのです。


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