ホンモノとは何か?

2025年12月20日

スピリチュアル 幻想 真理 問題

t f B! P L
「さすがにホンモノは裏切らない」

「チョット地味に見えるかもしれないけど、ホンモノ以外は結局飽きが来るし、長く続かないんだよな。ここはやっぱり高価だけど、無理してでも本物をチョイスするべきだ」

「これこれ、これぞホンモノの味、このくどくなくてあっさりした旨味がホンモノの証拠だよな」

・・・多々・・・

ホンモノ、ホンモノ、ホンモノ、ホンモノ、ホンモノ、ホンモノ・・・

えーい、もってけ泥棒、当たりはずれ無しの大放出。そこもかしこもぜーんぶホンモノの大安売りだぁ。さあさ、片っ端から持ってってちょうだいよ。

世に、ホンモノは数あれど、そのなかの、いったい何割がホンモノのなのか? 果たしてそこにニセモノはないのか?

はなはだ疑問である。





人間は「ホンモノ」が大好きだ。
ニセモノ以上👻?に大好きだ。


事実、これまで多くの場面で人類はこのテーマ「ホンモノかニセモノか」という取捨択一を自問自答し、また公然と問うてきた。

ホンモノを観る
ホンモノを食す
ホンモノを読む
ホンモノを身につける
ホンモノに沼る
ホンモノ育ち😘

しかし、ここで冷静になって考えてみよう。
神輿や欄干に付いている擬宝珠(ぎぼし)がUFOを模したものであったり、そもそも神輿(みこし)が「失われたアーク(聖櫃=せいひつ)」であって、文字通りの「契約の箱」であった日には、それは「偽物」というよりもむしろ「象徴」としての役割を帯びてくるではないか?
 
擬宝珠

豪華装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれた契約の箱
Wikipedia=日本古来の神輿(みこし)と酷似しているというより、瓜二つだ

ホンモノがあればニセモノがある。
いや、ニセモノというダミーだかイミテーションだかフェイクだかがあって、はじめてそこにホンモノの何たるかがある。

「チョッチョッチョッチョ、チョイとごめんよ、チョイと通しておくんなまし。おやおや、扉の向こうにはあんさん方雁首並べてお出迎えってわけですかい? おっとそんな物騒な長物なんぞはお仕舞くださいやせ。メクラをおからかいになっちゃいけませんや。アチキにゃぁ人の姿は見えませんが、人の心はありありと見えておるんでございますよ、へへへへ」
(・・とか言ったとか言わなかったとか😎)

そう、本物にはごまかしが通用しない。
これ、大前提ですね。
これは両面の意味があります。
ホンモノの人物に対してごまかしがきかないのと同時に、
ホンモノの人物というものは、ごまかしをしない。
ごまかさない。
ごまかす必要がない。
一切が素である。
そんなところですね。

表面づら愛想がよく、フレンドリーな様を装ってはいるが、隙を見てはその財布をくすねてやろう、はなはだしいのは、息の根を止めてやろう、などとたくらんでいる輩は大勢いたのだ。とりわけ、昔の街道筋や、山越えなどはそんな賊がスクラム組んで待機していたという(時代劇見過ぎ?)。


さて、おかしなもので、「ニセモノ」が普及し、それが安価だからとか手軽で便利だとかなど理由はともあれ、一定数の市民権を得るようになると、今度はそこにオリジナリティというか、別種の「ホンモノ」が生まれたりもするから、不思議なものである。

その代表選手が、
「ほぼカニ」(写真右下)


兵庫県神戸市東灘区にあるカネテツデリカフーズ(株) 本社
に鎮座するほぼカニ神社=グーグルマップ

だと思う。
こちらはもはや説明不要だろう。いわゆるカニカマの類は日本で生まれて世界的な大ヒットを成し遂げた優れもの。
開発当初は「ニセモノ」「ダミー」の心無いヤジを一身に浴びつつ、スーパーの片隅でひっそりと目だたぬようにその姿を溶け込ませていたに違いない(しらんけど~)。

そんな日陰者だった”蟹もどき蒲鉾”は、来る日も来る日もそんな侮辱に耐えて、しかし、どーいうわけか「今夜はニセモノでいいか」という主婦の声を、いつのまにか「これこれ、これでなきゃね」というポジティブなものに変えていったんだとさ。
もはや、そんなお目が高いオバチャマ方も、年に数回を除いて本物の冷凍タラバなどには目もくれず、一直線に「ほぼカニ」売り場に参ずることが多くなったんだと・・。

これなどは、本家、ホンモノを凌駕してニセモノの真骨頂、プライドが見事に花開いた好例と見るほかないだろう。
実際は、同じ海産物でも蟹ならぬタラとか白身魚といった魚類、しかもその加工品といった市場を新たに開拓したことなんだろうが・・。

同じような例はいくらでもありそうだ。
なかでも、私たちに最も身近なのが、インスタント食品、とりわけラーメンではないだろうか?

実際に外食でのラーメンと言っては、それだけでも「ホンモノ」「ニセモノ」「元祖」「本家」などの一家言、蘊蓄、講釈が五万と降って湧きそうだが、ここでは、インスタントラーメンを挙げたい。
というのも、インスタント食品業界、なかでもそのラーメン業界というものは、もはや一つの食の世界を確立しているように思えるからだ。

より旨いものを求めてインスタント食品の世界を渉猟するものは少ない。
世に名店、旨い店というものは溢れるほどあるから、そちらを探すのが常道だと思う。

ここで考えなければならないのは、まず、なぜインスタントでなければならないのかということだ。
それは、簡便さ、手軽さ、場所を選ばない、持ち運べる、安価に手に入る、時短調理が可能・・など様々なメリットがあるわけだが、今や、むしろインスタント食品がいい、インスタント食品でなければならない、というシチュエーションも多くなってきているように思えるのだ。

速い話、隣で旨いラーメンを供する店があっても、そこへ足が向かわず、家の炬燵でさほど旨くはないうえに珍しくもないカップヌードルを食べたい、という選択肢も少なくないということだ。

両者は同じラーメンでも別物だ。
名店のラーメンとはまた別の食の世界がそこにある。



「ホンモノ」の敵は「マガイモノ」「パクリもの」である。
それらが、ホンモノに敢然と立ち向かうニセモノだからだ。
要は黙ってりゃ、つけ上がってくる類だから始末に負え得ないわけだ。

さて、世にいう”パクリもの”はいくつもあるし、特に学生時代にそれを身につけていたばかりに恥ずかしい思いをするというほど切ないことはない。

言うまでもなく、学生というものはサディストだから、そういうカモを見つけては、容赦なく蔑むし、突っ込むし、それを執拗に繰り返したりして虐める。

それがわざとパロっているものや、あるデザイナーへのオマージュであるという場合はOKだが、家に何らかの事情があって買ってもらえなかったりなんなりで、おかしな衣類を身につけてしまう場合が稀にあるものだ。
学校の悪ガキどもはそれを見逃さない。

たとえば、50年以上も昔、私が高校生だったころには当然学生靴はコインローファーが流行った。もちろんリーガルが一番人気だったが、学生には高価だったので、多くはやや革が硬いハルタかどこかのを履いていたものだ。

そのうちいまだに続く空前のスニーカーブームが訪れた。
なかでも記憶に鮮やかなのはリーガルの「R」というイニシャルが入ったスニーカー。
これまた大ブームになってみんなそれ履いて粋がっていたものだ。
当時3000円以上はしたと思うが、当然1000円前後のそれまでのズック靴とは大違い。

そこをケチって、というかケイザイして「R」のイニシャルが「K」になったスニーカーが、リーガル製に混じって、ポチポチ出回り始めた。
通称「Kガル」である。
「あいつ、Kガルじゃない?」
などと、見つかり次第、侮蔑の対象になったものだ。

明らかに「R」人気に当て込んだスニーカーづくりなわけだが、一体その「K」は何の頭文字だったんだろう?
それにしても、今になって、「R」と「K」のアルファベットをしげしげと見つめてみると、実によく似ているではないか!
Rの上の部分が欠ければKになるところが、なんというか狡(こす)い。
そんな憎いくらいのギミックで1000円だか2000円だか安くなるのかどーか知らないが、いずれにせよバレバレのニセモノにそこまでの効力はなかったと思う。

実際、男子学生などはお洒落などどーでもいいというのがほとんどだった。
気にせずに履いていたズックがパクリものであることを、みんなに指摘されてから初めて分かるわけで、それは切ない気持ちになったことだろう。

いまだに「R」スニーカーは健在でした。

似たお話は、おそらく全国各地にあるだろう。
たとえばお笑いの中川家・兄 剛(つよし)さん曰く、弟の礼二が小学三年のころプーマのパンツが高くて買えず、似たパンツを履いて家を出たはいいが、それが思いっきり「PUNCH」というパクリものだったという「切ない」話がある。
爾来、礼二は中学に入るまで「プンチ」というあだ名で通ったらしい(小学生アルアルな残酷な話だ)。

プンチ一丁!


今回は、「ホンモノ」について考察してみたが、例によって釈然としない。
ごく薄っすらとその表層をなぞっただけのような気がする。

この世が実は未来世界が描いた仮想現実であるといった「シミュレーション仮説」を否定できる断片すらつかめない我々に、ホンモノ、ニセモノといった概念遊戯はもはや通用しないだろう。

「胡蝶夢」の昔から、夢が現実であるという世界観は、世界の半数の人類の意識を顕している。


私がもし、一つ気になることを語るとしたら、
それは、なぜ、人は「ホンモノ」を求めるのだろうか?
という一点である。
いや、求めるのは自由であるし、結構なことだろう。

しかし、それを求める以上、その土俵というもの(置かれた現実)があやふやな、夢幻に等しいものであることを暗に認めていることを自認しなくてはならない。

だからこそ、ホンモノに焦がれ、それを求めるのだ!

では、いざそれを手にしたときにあなたはいかがだろうか?
それによってあなたはどうなったのか?
僅かばかりかメタモルフォーゼをなしたのだろうか?

なぜにその源泉を柄杓で掬い、
その底にわずかにたまった砂金を取り出すのか?
そのキラッと輝いた砂粒を「ホンモノ」というのであれば、
多くの無駄、ニセモノこそがそれの組成になっているのか?
または、「ホンモノ」を採取した後に、それら多くの無駄、ニセモノが、残滓として残るのだろうか?

いったい、「ホンモノ」とは、実は一人の神を指すのではないか?
「あれではない」「これでもない」といった選り好みの果ての「理想」をそう呼んでいるだけではないのか?

なぜに、「ホンモノ」が、あそこにも、またここにもあってはならないのだろうか?

なぜ「一神教」でなければならないのか?
なぜ、「不変の真理」「唯一の法」なるものが、しかも”厳然と=厳かに”そこにあらねばならないのか?
それは、実は人間的な餘に人間的な一つの(子供じみた)とらわれではないだろうか?


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