最も言いたいことなんだけど最も伝わりづらいこと【非二元】

2026年2月15日

問題

t f B! P L

 最重要問題


別にへりくだって言うわけでもないのですが、
私の筆力では、どーにも伝わらない。
そもそも理解しにくいうえにもってきて、説明しにくいときた。
こいつが一筋縄で右から左へツーカーと伝わるわけがない。

そんな、最も言いたいことなんだけど最も伝わりづらいことの一つに、

非二元(ノンデュアリティ)がある。

なぜ、それが伝わりにくいかといえば、それは通常の意味で学ぶことができない事柄だからだ。
何せ、この世のどこを探しまくっても二元性しかないし、非二元なるものはどこにもないのだから、この問題は厄介だ。
それでは、ないものについて論じるのか? となってしまいそうだが、「そうではなくて」とか回りくどい講釈がついて回るから余計に輪をかけて伝わりにくくなってしまう。

とまれ、この問題はおそらく今後も最も重要な問題として人類の前に立ち塞がるか、あるいはあっけなく解決して、これまでとは違う歴史の幕が開くのかもしれない。




非二元の向こう側


なるほどノンデュアリティ(非二元)という”概念”が、平和で闘争のない世界を構築する──そんな考え方に行きついた方でも、このような思考には慣れていないから、混乱したり、時には誤解曲解を受けたりしがちだ。

そもそも、「ノンデュアリティ」は概念でも、思想でも、主義でも、哲学でも、ものの見方でもない。
だから伝えることも解説することもできない。
つまり、伝わりづらくて当然なんですね。

まずは、素直になりましょう。
非二元は概念ではないのだから、そんな言葉に振り回されたり、拘束されることはありません。

重要なのは自分自身に素直になることです。
思ったこと、感じたことに素直になりましょう。

非二元の向こう側には、当然一元世界、絶対の世界というものがあるはずですね。
といっても、それはあくまでも推測であって、実際にそんな世界を見てきたものはいません。

しかし、私は我々は一元世界で一つであり、時間も空間にも一切束縛されることはなく、宇宙の発生時から今後未来永劫にわたってそこに在り続けると断言します。


5千年前の王様が自らをそう呼んだのとまったく同じものが、今ここでこれを書いている。彼もまた自分を「私」と呼んでおり、またあなたはあなたでまた「私」と呼んでいる。
その様は、まったく変わることがない。
そこに個人の生死などは、吸ったり吐いたりする呼吸のようなもので、この大生命とも言うべき「私」には微塵の影響も与えない。

あなたや私はいずれ死にます。
しかし、たとえ今から一万年後であろうとも、この私はどこか誰かの身体を借りて「私」と呼んでいるに違いありません。
今のあなたがご自分を「私」と認識するのに違和感がないように、そこの誰かも同様です。

そうでなければ、今あなたや私がこうして(自分を意識して)ここにいるわけがないではありませんか?

詭弁ではなく、「私」は一つである。
そう思うのです。

なぜ、そんなに(自信ありげに🤔)そう言い切れるのか?

それはこういうことです。
(これから記すことは、私独自の考えですから、おそらくは他で耳にしたことはないはずです。)

同じ地平線からでなければ違いが分からない


とかくAとBの二者の間に、

「差異がある」
「温度差がある」
「矛盾がある」
「異質である」

などと、相対的な違いを認識したとしても、多くはそれをどこかしら超越的な論理で一元化しようとします。
早い話、それは宗教です。
分かったような分からないようなその説明から、「今自分が見ている現象は仮象のものなんだ」などと、それを無理くり無きモノとするときに、当然抵抗があって当たり前です。

頬をつねっても、「いやいや、実際は痛くなんてないんだ。第一、痛みを感じる”我”なるものなどどこにもないのだから。ハハハハハ」

実際も、そうでないもあったものではない。
痛いものは痛い。
おかしいものはおかしい。
腹立つものは腹が立つ。
許せんものは許せん。
ここにいるのが我でなくて、どこにそいつがいるのか?

といったような反応を示せば、果たして

「それは実際には存在しない二元的な世界での世迷言にすぎないのだ」

と一蹴されてしまうのだろうか?

さらに注意しなくてはならないのは、「ノンデュアリティ」を以てして、「あらゆるものは一元であるゆえに、いかなる差別も許してはならない」的な強硬なボーダレス化を主張するのであれば、それは危険というよりも大きな誤りである。

短絡的な「平等」を謳い、平準化しようという動きは、よく見かけるグローバリズムの甘言であり、罠である。良い悪いではなく、「ノンバイナリー」のように男女の性差を無意味化することとは違うのだ。

同じ地平線から世界を見るとき、そこには差別というよりも差異があって当たり前であり、それこそが自然の姿だろう。
そこでは、観る側の主体が一元世界にあるあらこそ、観ているもの(客体)にバリエーションが生じる。

そうなりたいという迷路──得ようというものは得られない


たとえそれが似ていようとも、AとBは違う。
少しではなく、まったく違う。

例えば、
あなたも、私も同じように自分を「私」として意識している。
その意識している対象である「あなた」と「私」は当然別人である。
だから、あなたが「私」というときと、私が「私」というときとでは、同じ「私」でも個々に違った対象をそう呼んでいるわけ。

しかし、そう呼んでいる「対象」ではなくて、「主体」はどうだろう?
それも別なものなのだろうか?
二人の間には、同じ目鼻があって二本足で直立している人間という共通項以外にも、例えば生まれた国が一緒であったり、同じ言語を話したり、同じような教育を受けていたり、同年齢だったりなどと接点も多いかもしれない。

しかし、あなたと私とでは、そのものの考え方から、感じ方、味覚嗅覚に至るまでソートーに違っていて当たり前。
・・ですね?

それでは、その「違い」はなぜ分かるのか?
という問題です。

その判断をする主体が、先ほどから言っているように個々に異なるものであったときに、果たして両者の違いが分かるでしょうか?

いえ、分かりません。
個々にバラバラであったならば、相互に相手方の見方もバラバラで、そこに基準点がないからです。

両者は同じなのです。
同じだからこそ、差異が判別できます。
ここが実はこのブログで私が話していることの骨子なんです。

勘違いしてはなりません。

巷間で謂われる「ノンデュアリティ」は、残念ながら現今の仏教や禅のように、金儲けの餌やツリであることが多いのです。
つまるところそれは、「概念」であり、「主義」であり、「考え方」であって、新たに取ってつけたものです。

二元性という現実を認めないから、そうなるのです。

それらは、「非二元的」になりたい(「悟り」を得たい)という欲求であり、ならなくてはならないという強制でもあるケースが多い。

そこでは「非二元」が目的であり、理想でもあって、決して、今ここにある現実ではないのだ。
つまり、それは「今」から「未来」へという時間に拘束された二元論以外の何ものでもない。

となれば、もちろん万能、万有、全知全能といった「決して叶わぬ理想」を「神」としたり、
無差別愛、博愛などといった「夢想」を「愛」と呼んだりすることと何ら変わりない。

そこに「・・・になろう」とする「動機」がある限り、それは成就しません。









本ブログの読み方

このブログを検索

ラベル

Translate

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

QooQ