ボッチ

2026年2月3日

雑感 身辺雑記

t f B! P L
 あなたは孤独ですか?
いや、あなたにご兄弟がいないとか、
友達がいないとか、
話し相手がいないとか、
ご両親に先立たれて天涯孤独の身分になったとか・・

そのような物理的な境涯ではなくて、
あなたは果たして孤独でしょうか?
もっと正確に言うのであれば、
「孤独」というものを切実に感じておられるでしょうか?


「ソロ」だからこそ面白い


二三年前にブームが去ったといわれているせいか、最近でこそあまり見なくなったが、
ひところYouTubeでいろいろな「ソロキャンプ」の動画を観たものである。

ソロキャンプ──いわゆる”ソロキャン””ボッチキャンプ”・・
「独りキャンプ」のことである。
動画によって多少の構成や味付けなどは違うものの、やることと言ったらほぼ「野営」である。
それに尽きる。

ただユーチューバーが、野営地や山林に赴いて、そこで幕を張り、火を焚き、やおら煮炊きをしたり、飲んで食べて、という動画である。
やることがなくなった時は、──と言っては失礼だが、「雪中キャンプ」とか称して、わざわざ雪をめがけて行って、同じことをする。

今にして思うのだが、
「他人がただ食べて飲んで寝て起きてといった動画を観て、何が一体楽しいの?」
である。
「だな、だな(笑)」
で、その質問に賛成である。
ただし、それがただ普通のキャンプ動画であったならの場合である。

しかし、ソロの場合、これが実に面白いのである。
何が?
独りがである。
これは、逆に一人ではない状態──友達などの集団や、奥さんなど連れと一緒の場合どうなのかを比較すればわかりやすい。

これがカラッキシ面白くなくなるのである。

普通で考えれば、キャンプというものはみんなで行って、締めにはキャンプファイヤーなどで楽しむのが常道だろう。
それが楽しいのであって、独りで行って何が楽しいのか、となる。

ところが、観ている側にとってはこれが逆になる。
集団でのワイワイガヤガヤは本人たちは楽しいのだろうが、これが、観ている側からすればチットモ面白くない。
家庭の延長の奥さんとの会話、野郎同士の「掛け合い」や、気の利いたやり取りですら、当たり前のご挨拶でしかないからだ。
しかし、独り自撮りしつつ、マイクに語るモノローグは、否が応でも本音が入ることになるから飽きないのだろう。

旦那を亡くして・・今が最高に幸せ!


連れに先立たれてすっかり人生の生きがいを見失ってしまった。
孤独が耐え難い・・。
実際にそんな方もおられるだろうし、
さももっともな、同情を集める境遇だろう。

しかし、私が知る限り、(少なくとも女性の多くの)寡婦に関してはそれがそうでもない。
これはかつてそんな(旦那を亡くした独身女性の声を拾う)仕事をした経験上、胸を張って断言できる。

彼女らは異口同音に、こう答えた。

「(寡婦になった)今が一番幸せ」
「毎日が楽しくて楽しくて・・」

正直、私も唖然としたくらいではあったが、あるいはそんな答えは日本人女性の口からしか聞けないものかもしれない。
歪んでいる・・そう思った。

私の世代の昭和から平成~令和と移って、認識が変わったことを願うばかりだが、
そこに我が国の結婚というもの自体の認識のいびつさというものは確かに感じる。

仕事こそ命とばかりに、在職中はワーカホリック気味に仕事一色。
少しは家事も、、女房の言い分もわかっちゃいるがしかし、旦那には「家庭があるのも仕事がうまくいっての物種」という大義名分がある。
やっぱり仕事か~い!
接待ゴルフ、接待酒、、
すべて仕事のため・・。

これでは奥さんはたまらない。
昔ながらの三つ指ついて主に従うタイプであればなおさら、彼女が一人になった時に、ようやくそこに解放された世界を見て、前述のような喜びの感慨に浸るのだろう。

朝の目覚ましー赤ちゃん授乳、子守ーペットの世話ー電話応対ー洗濯、アイロン掛けー料理ー掃除・・と、主婦はたくましくなる一方

孤独なものは賑わいを求めて彷徨う


私が思うに、
孤独なものは賑わいや群衆を好み、
孤独ではないものこそが、独りになることを好む。
(ということは、”孤独な人”は実は群衆の中にいる彼や彼女であり、独りでいる”ボッチ”がそうとは言えないことになる)

見た目の「ボッチ」か否かでは孤独は測れないということ。
なぜならそれは当人の認識の問題だからだ。

では、「孤独」って何だろう?
それは、人のあるべき姿なんだろうか?

ここ数年、私はほぼ「孤独である」と感じたことがない。
しかして、実際は現役を離れて久しいし、日常もかみさんや親類縁者と会話するくらいで、環境的には孤独なんだろう。

私はむしろ友人も回りにいたような20代、その前後に「孤独」を痛切に感じた。
当時住んでいた東京・下町(荒川区)の下宿から、夜、どこから来るものかわからない涙に泣きじゃくりながら近隣の街を徘徊し、千住大橋を渡った記憶がよみがえる。
思えば「青春」だった。

別に失恋したわけでもなく、(気障な言い方をすれば)「存在の悲しみ」を噛みしめていたんだと思う。
そうしてその種の「涙」は青年時代にすべて流し切ってしまったんだろう。

この仙台の地に越してきて3年余になる。
当初は、自分と同じような考えの仲間を集めて・・なんて考えていたが、それは無意味であるか、間違いであることに最近気づいてきた。

真の仲間・・というのは、自分と同じような思想や性向のもの同士の集まりを指さない。
むしろ多士済々で自分にないもの、自分と違うものと接するべきなのでは・・と最近になって思うのでした。

これは、言葉を換えれば、人間孤独でなくてはならない──そこを逃げて馴れ合いの関係性に埋没してはならない、ということだ。

これは私自身もそうだし、皆さんにも言えることだが、他人がどう思おうが自分がこれと思ったことを貫き通す。

これに尽きるかと思うのです。
孤独な作業だが、それは決して孤独ではない。




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