はじめに
これから綴っていくことになる大小さまざまな断片は、それぞれ無関係に見えて、時折関係性を示しつつ、やがて一つの方向に収斂されます。
あるいはそのような意図でもって書いています。
その方向とは、
人間とは幸福な生き物である。
の一言に尽きます。
「元来」や「生来」といった枕詞なしにです。
もしあなたが、そして私がそれを即座に全面的に受け入れることができないとすれば、それは深刻な問題です。
なぜなら、
今幸せでなければ生涯不幸である。
からです。
「幸せ」と言葉にした段階で、それは遠くにあります。
なぜならば幸せは、それをそうと意識しないところにあるからです。
たとえリッチな夢のような境遇にあって、それを「幸せ」と感じようが、それは瞬く間に消え去ります。
なぜならそれらは「幸せ」ではなく、「愉しみ」だからです。
愉しみははかないものですが、とりわけ現代社会の目指す「幸福」とはそれです。
一過性の「幸せ」や僥倖、多幸感は不幸せの別名です。
幸せは、そうであったりなかったりはしません。
常に幸せです。
前提条件も仮定もなしにです。
だから幸せを目指したり、探してみたり、またそれに向かうことはないのです。
これを読んで、口元をへの字やムの字に曲げるに及びません。
人間は、大小さまざまな「幸せ」を手に入れたと勘違いしている不幸な人か、
もしくは、
「幸せ」というものを知らず、そうなりたいとも思わないような幸せな人のいずれかに分かれるのです。
奇蹟の連続体
それでは、いったいその「幸せ」というものは、どのような形で私たちに訪れるのか、です。
それはあまりにも身近にありふれて、気前良くも豊饒であることから、それをそうと意識しません。
きわめて重要なことは、いつもバックグラウンドにある。
かといって、それは隠れているものではなく、むしろ公然と大衆の目の前にある。
それは、休むことなく力強く稼働しており、しかも寡黙です。
私たちが生きているこの大宇宙、大自然、地球環境──その営みを振り返ってみるとき、そこにある奇蹟的な均衡と、想像を絶する宏大さ、驚くべき繊細さに否が応でも思い当たることになり、その前ではただただ己の身をすぼめて小刻みに打ち震えることしかできません。
私たちはついうっかりそれを非日常的な夢物語でもあるかのように扱いがちです。
しかし、確実に地面を踏みしめ、大気を呼吸し、見て、聞いて、話しているこの世界を、もし「現実」と呼ぶのであれば、ここはその夢の世界からどのようにして具現化してきたのでしょうか?
また、太陽の光、温もりを肌身で感じ、絶え間ない鼓動によって、脈々と全身にみなぎる血流・・朝の森林での気持ちの良い深呼吸・・それらを「命」と言うのであれば、その命はどこから来ているのでしょうか?
確かにそれら細大漏らさぬ節理とでもいうもののおかげで、はじめて私たちは動き回ることができているようです。無数にあるうちのたった一つの歯車が狂ったり、シャフトが欠損したりすれば、たちどころに動きは異常をきたし、しまいには止まってしまいます。
しかし、不思議なことに、私たちはこれらある意味「命よりも大事」な事柄には、常々思いを寄せないものです。
それらは、クルマや時計などと違って燃料やバッテリーが無くても半永久的に稼働し、運動を繰り返してくれる──そうした安心感。
おそらくそれに任せきっているからに違いありません。
人間の手前までは完璧なのに人間以降は壊滅的
(「神」とか「天国」といったあまり好ましくないワードを使わせてもらえば・・)
このように、私たちは人類は、神の采配のもとで辛くも存命できているかのような不思議中の不思議の中にいるように思われます。そんな中、本来は何の不満もないどころか、それこそ天国で遊んでいるような様が「人生」と言われる姿ではないでしょうか?
ここがまず、このブログの前提条件・踏み絵になる部分です。
すなわち、
人間は徹頭徹尾自由であり、幸福であり、この世を遊び、謳歌するのが人生である。
(少なくとも、”人間以前”までのお膳立ては、そのように”奇蹟的に”完全無欠なまでに整っている。調べれば調べるほどそうである。)
しかしてその実態は・・・
戦争はなくならず、殺人は組織化複雑化し、殺戮はますますその数を増大している。
貧困格差はより激化し、人倫はますます荒廃し腐敗しきっている。
残念ながらこれが現実です。
ここで、あえて古代から近現代に至るまでの人類史における戦争の歴史をあげつらうまでもないでしょう。
知るようにそれはまさに惨(むご)くて無残な血塗られた歴史であることは、まぎれもない事実です。
そこで私たちは立ち止まらなければならないでしょう。
いったい何がそうさせてきたのか、またそうしているのか?
その要因が次の3つあるとすれば、それはそのうちの1つなのか、あるいは2つ以上の複合的な要因なのか?
- 人間は初めからそのように不協和音を醸すような生き物である
- あるいは、基本的な何かを誤認することで、漸次そのようなマイナス要因(残虐性など)を増大させていった
- 本来、幸福に生きるべき存在であったものが、何か他の悪意ある存在によって歪められてしまった
どうでしょうか?
それとも、まったく違う別の要因があるのでしょうか?
仏のような人でさえ、突然何をしでかすかわからない。
予断がならない。
「人間は化け物だ」とよく言われます。
本当にそうなのでしょうか?
私について
私自身についてのざっくりとした紹介はこのブログの初めにちらっと触れました。
私はこれといった経歴も、学歴もない根無し草のようなもので、恥ずかしながら何も特記すべきものはありません。
あえて風変わりな点を突起すれば、中学生のころにシュールレアリスムに没頭し、詩を書き、作文や絵画では評価をもらったりした覚えがあることです。だから素地としては思想的というよりはむしろ感性的な面が強い気がします。
ただ自分の方向性を完全に決めたのは、17歳の時に読んだ『老子(道徳経)』と、桜沢如一のPU(Le Principe Unique=ル・プランシップユニック《無双原理》)に関するおびただしい著作です。のちに、この桜沢の思想こそが老子の現代科学版の解釈であることに思い至り、爾来約半世紀もその検証をしてきたという”愚か者”です。
こういう書き方をすると、なんだか食えない奴、堅物といった風に思われがちですが、こう見えてなかなかに「遊び人?」で、若いころは友人らとアマチュアバンドを組んでイキンでいた恥ずかしい過去もあります。
1956年、東京・池袋生まれで、長く東京・横浜圏に居住しておりましたが、思うところあって2022年春に現在地の東北は杜の都・仙台市に転居、現在女房と二人暮らしです。
前妻との二人の子供は成人し、首都圏に家庭を持っています。
さて、折に触れて書いていますように、(若いころの多読乱読に引き換え)ここ30年来本らしき本を読んでいない私ですが、それは、(決して排他的で高慢な態度からではなく)自分の追いかけているもので精いっぱいだからでもあり、所詮は(どなたでも)他人の考えに依存することなく、自分独自の思想を膨らませないことには無意味であるとさえ思うからです。
そんな最近のご時世にも疎いような私ですが、比較的最近に、老子ー桜沢に続く大物との出会いがありました。
それがクリシュナムルティです。
ここで言うクリシュナムルティには二人おり、一人は有名なジッドゥ(J)で、もう一人はUGです。
二人は相反するような思想の持ち主ですが、非常に似ている側面もあります。
両クリシュナムルティは、きわめてラディカルに過去の宗教家、指導者(グル)、権威といったものを否定し去ります。
また「思考」という人間固有の罪業が、その堕落を生じさせる元凶であることを喝破した点は特筆すべきだし、これによって人類史の未来は開ける兆しが訪れました。
私は、口を開けばやれ宇宙が・・、ペンを取ればやれ生命が・・、といかにもスピリチュアルなテーマ(大風呂敷)を拡げるようですが、注意してお読みになれば、それらに対して懐疑的否定的な姿勢であることを発見されるでしょう。
そんな経緯もあり、当然知っていなければならないことに無知であったり、トンチンカンなことを言ったりと、お読みづらい点も多々あるかと思いますが、ご容赦ください。
全否定から始めよう
まずは全否定から入りましょう。
知っています。
肯定することよりも否定することの方が数倍数百倍つらいことを。
否定には媚も忖度も付和雷同もありません。
それは勇気がいります。
なぜなら、否定することで自己をも否定することになるからです。
しかし、この分厚くてあまりに頑丈な扉は、通常の力ではびくともしません。
それは開けるのではなく、「全否定」という高速掘削機をもってぶち抜くのでなければ歯が立たないのです。
ところで、全否定というからには、都合の悪いものだけを否定して、そうでないものは生かすというアンフェアなやり方は通用しません。
むしろ、これまでそれを「善」として、また「正義」として祀ってきたものにも矛先を向けてみるべきです。
さて、なぜに否定しなくてはならないか? ですが、過去に我々人類は「平和で幸せな世の中」を作ろうと、悪戦苦闘してきた経緯があるからです。
もちろん、その下地には、先ほど述べたように、2000年といわず数千年に及ぶ血塗られた歴史があることは言うまでもありません。
その間、多くの聖賢、覚者、哲人らが輩出したのは、むしろ世の中が依然として混乱し、人々は相変わらず不幸だったからにほかなりません。
しかし、彼らの卓越した叡智をもってしても、この現実世界は変わらないどころか、なぜかますます悪くなっていく一方──つまり、もうすでに打つ手はすべて打っているのです。
宗教的な、倫理的な、道徳的な改革といったものは、おそらくすべてなされてきたし、ここ数百年で世界を席巻した科学(テクノロジー)による技術革新、ましてここ近十年で、シンギュラリティを懸念するにまでなったAIの長足の進歩が、一気呵成に人類を幸福の波に乗せられるのか? というと、もう答えはそこに出てしまっているかのようです。
さあ、時は満ちました。
もう後にも先にも退けないのです。


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