これらは、あなたが止むまでの記録です。
雨が止むように。
だからあなたが止めば、
あなたがあなたであることから離れれば、
ここにある一切は不要になります。
また、不要になるように読むべきです。
あなたがあなたを終えたとき、
あなたという”雨”が止むとき、
おそらくそこに本当のあなたがやってくる。
そもそも、私たちにとって「自己」とは何でしょうか?
あなたは、あなたの
私は私の
知識、経験、記憶、外界との関係性・・・
それら思考が描くイメージの投影を「自己」と呼んでいるのではないでしょうか?
「思考」が自己をつくっています。
「自己」は思考です。
「思考」は思考者です。
その思考から離れた思考者が、あなたを「自己」と呼んでいるものです。
そして、その「自己」はいつも過去のものです。
私たちはいつも過去のもの、過ぎ去ったもの、幻影です。
それはまた、私たち旧い人類そのものです。
過去というものがどこにもないように、
その意味で、「自己」などはどこにも存在しません。
その発見こそが、「本当の自己」がやってくる鍵になるものではないでしょうか?
ところで、その思考の功罪はあまりにも途方もなく甚大なものです。
一方で「神」または神聖という概念を標榜し、
他方で「悪」──詐欺、冷酷、非情、卑屈、狡猾さ、排他、嫉妬、怠慢、言い訳、執着、隷属、
エゴイズム、傲慢──その他数えきれない不幸、堕落した人間性をもたらしました。
一方でコンピューター、AIなど人知を脅かすまでのテクノロジーを進展させ、他方で殺人、殺戮、紛争、戦争、ジェノサイドを容易にやってきました。
それは、人類史という壮大な悲劇そのものではなかったでしょうか?
思考があるところ、悲劇は免れません。
雨雲があるところ、雨は止みません。
それが二元性に根ざしているからです。
そこで私たちに何が可能でしょうか?
思考を根絶やしにすることでしょうか?
思考を超えた「何か」を打ち出すことでしょうか?
いえ、それは不可能です。なぜならいずれも「思考」そのものを前提、または動機としているからです。
どこにもなかった、発見され得ないもの、常に新しいもの。思考を排斥するのではなく、むしろ容易くそれの一切を包含して余りあるもの。
それを、「ありのまま」としましょう。
ありのままの自然と同じように。
「思考」=自己から、
「ありのまま」=自己へ。
それは、思考という雨の止むまでの記録です。
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