青年時代に読んだダダイスト新吉(高橋新吉)の詩に、
《お前が何かを成そうとする。それはすべて無駄なことだからやめた方がいい》
という旨(うろ覚えのため、実際は表記と違っているかも)の一篇があった。
当時傾倒していた禅語録に通じるような内容にドキッとしたので覚えているのだろうが、大意はそんなところだったと思う。
![]() |
海に帰りたいギマ |
「すべて無駄」とはまあよくぞ言ったものである。
しかし、すべてが無駄なのであれば、それはもう無駄であろうが有意義であろうが、虚しかろうが実があるものであろうが、無関係である。
無駄なんだから(笑)
何かをやろうとするその一つの行為が無駄で、他方は有意義なのであれば、それは選択であって、ジレンマの世界である。(日頃私たちがやっている行為である。)
しかし、そうではなく、ダダイスト新吉が言うのは「無駄一元論」である。
無駄以外にない、という世界観である。
「やめたほうがいい」とはまあ投げ捨てたものである。
ここで「やめたほうがいい」とはいうが、これも無駄に対する有意義同様に「やったほうがいい」という選択肢は閉じている。
なぜなら、すべて無駄だからである。
おそらくは、その無駄なことを除いては「やった方がいい」し「やるべき」なんだろうが、無駄なことしかないのだから、それができないというわけ。
なんだか、よく見聞きするその辺の奇を衒った辻説法のようだが、あろうことか、私はさらに進める。
「自己を止めた方がいい」と。
自分なんてチッサイよ
人によっては、いや、ほとんどが自ら立っているその足場を揺るがすようなことには反発する。
みな自己の確固としたアイデンティティを築き上げることが当然と考えるからだ。
そうして、そこから自らの見解なり思想なり主張をはためかせる。
しかし、私はそのアイデンティティを否定する。
自己を否定する。
つまり、始めから否定する。
自己の意見や主張にではなく、そのもとの自己、自我を否定する。
自己の機先を制する。
認めない。
人はみな当然このような姿勢には条件反射的な抵抗がある。
自分が無くなって、はて、どうなるのか、
と考えるからだ。
そこには拠り所を失う恐怖心がある。
しまいに、「自己を否定する」ことを、自分への攻撃ではないかと考える。
そのような主張は頭がおかしいのでは。
ちょっと往っちゃってるんじゃなかろうか、と。
しかし、よく考えてほしい。
完全に気が狂っているのは私たちの方ではないか。
世の中の狂乱と腐敗を招いたのは私たちである。
たまたま今そうであるのならまだしも、数千年来そのような状態であること、そこから抜け出せないこと、それこそがすっかり頭がおかしくなっていながら、しかもそう気づかない私たちの偽らざる姿ではないのか──おかしいのは、それをそうと自覚しない麻痺状態にある私たちの方ではないか。
戦争
殺し合い
犯罪
詐欺・・・
それら数ダースもある悪徳が、どこか他所から振りかぶったウイルスのようなものとして、予防やら防止やら対策やらの千日手を編むことに余念がない。
自らは何食わぬ顔をしていながら・・。
自らは何食わぬ顔をしていながら・・。
ここで言う「私たち」とは、「自分」「自己」または「人類」と呼んでいるそれである。
それらは、すべてイメージで構築されており、実在のものではない。
なぜなら、(実在、事実ではない)何ものかの「概念」によって思考は組み立てられ、その思考がホログラムのように「自己」をつくりだしているからだ。
だから、実際にそこにあるのは、人と人との関係性であり、その突端にあるものを「自己」と称しているのに過ぎない。
自己の才能
馬鹿らしさ
愚かさ
破廉恥さ
いやらしさ
秀逸さ
秀でた個性
天分・・・
なんであれ、「自己」にそれをやらせておけば、それはみな最終的には我田引水的に、より自分に都合の良いように分析するだけだ。
「いまでこそ○○であるが、本当の自分はとんでもない大物だ」くらいに(笑)
それは履歴書の「自己アピール」のように、余計な尾ひれだらけだ。
![]() |
自らは釣りをやらないくせに、YouTubeの『ねこまた釣査団』という釣り番組をたまに観る。釣りキチの「団長」と鴻巣顧問との駆け合いが面白い。顧問が釣った魚を「小ッセ」と小馬鹿にするシーンがなんだか愉快だ |
言い換えれば、「自己」とは、そんな貪欲を言う。
そんな貪欲が社会(世界)を構築しているから、
いきおい社会はそうした「自己」を強いてくる。
そんな貪欲が社会(世界)を構築しているから、
いきおい社会はそうした「自己」を強いてくる。
そうした「自己」が”勝ち組”であり、メインストリームの大半を占める。
その貪欲同士が突き合わされれば、そこに軋轢が生じないだろうか。
ひいては戦争が・・。
どんな大言壮語をその口で吐こうが、
人間(自己)はちっぽけなものである。
人の考えなど、エゴイスティックですべて偏向している。
自分を観るもの
さてここで、さらに見つめなおしてもらいたい。
その「自己」なり「自分」なり「人類」なりを、いったいどこの誰がそう認めているのかだ。
だれがそれを見ているのか。
どこからそれを見ているのか。
その「自己」なり「自分」なり「人類」なりを、いったいどこの誰がそう認めているのかだ。
だれがそれを見ているのか。
どこからそれを見ているのか。
私が「自己」を否定するのは、それが偽物(思考の描いたイメージ)だからだ。
なにもやみくもに、アウトローを気取って反抗しているのではない。
自己に埋没している者に自己は見えない。
「自己サイコー」だからだ。
自己は「観られるもの」である。
それを自己批判ともいう。
観られるものがあるということは。当然それを観ているものがある。
その自己を、とりわけその醜さ、卑小さを見抜ける目があるということは、
それを観ているものこそが、いかに美しさ、無量の広がりを持つ存在であるのかがオーバーラップしてはこないだろうか。
そこには自他の区別があるだろうか。
それを観ているものこそが、いかに美しさ、無量の広がりを持つ存在であるのかがオーバーラップしてはこないだろうか。
そこには自他の区別があるだろうか。
私の矛先が時に切り捨て御免のように、あるいは間違ったものまで斬っている場合もあるだろう。
構わない。
それが「未知」の分野だから、その足取りも覚束ないに違いない。
私はあなた同様、この世界が変わらなくてはならないと思っているし、またそうあるには外の「世界」ではなく、「自己」という根本的なものの改革が必要と考える。
それはいままでになかった形を示さなければならない。
政治家の言い訳のように、同じような答弁を一生繰り返していても埒が明かないのではないか。
その意味で、私は子供のように、いつまでも宝さがしという遊びに打ち興じる何かである。
追記《塗り壁後日談》
先般の投稿「ぬりかべと戦う(養生8割)」にての失敗談、そして再度補修に向かうといったどーでもいいようなお話に、たくさんの反響が・・なかったわけですが💦
早速、下駄箱と同色の木目調マスキングテープなどで補修(=証拠隠滅、ボロ隠し)などをして、ご覧の通り、ホテルのフロントかと見まごうばかりの出来栄え(?)に、一同満足するといった小市民的な一日を過ごしました(笑)。
(実際は桟の端にはみ出た漆喰をスクレーパーでこそげ落とす作業を覚悟していたのですが、お義母さんが少しづつ薬品でふき取って綺麗になっていた状態でした。)
0 件のコメント:
コメントを投稿