「えーと、○○のスペルは○○でよかったんだっけ?」
の「spell」は通常「綴り」という意味で使われている。
もちろん、そういう意味も含まれているが、もう一つに「呪文」の意味があるそうだ。古英語にその語源が辿れるという。
そう、「呪文」こそはあのハリポタシリーズや、ファイナルファンタジー、ドラクエなどのロールプレイングゲームの根幹をなすアレであり、古代から世界各国、日本でも庶民にまで浸透してきた「言葉の力」でもある。
ところで、その「呪」という一文字がなかなかに曲者である。
じゅ【呪】
1 他人に災いが生じるように神に願うこと。のろい。呪詛じゅそ。
2 自分の災いを取り除くために神仏に願うこと。呪術じゅじゅつ。まじない。
3 仏語。陀羅尼だらに。真言しんごん。
──出典 小学館デジタル大辞泉
一体そんな作用を可能にする神やら仏とは何なのか?という疑問を提示しつつ、進めていきたい。
”潜在意識”も呪文の活用?
さて、呪文ってなんなの?
という疑問に早速ググってみると、こうあった。
(以下、Wikipediaより)
呪文(じゅもん)は、呪術的な効果を得るために使われる言葉であり、呪術の一要素を成す。多くは定式化されており、期待する効果に応じてそれらを使い分ける。
呪文のフレーズには直喩・隠喩が多用されたり、擬音語・節回しなどの音声的な工夫がなされたりする。また神秘性によって効力が高まると考え、古語や意味不明な語句を用いたり、秘密にされたりする場合もある。またはそこから転じて、意味不明な言葉の羅列などを"呪文"と喩える場合もある。
ふーむ、要は何らかの効果を期待して、それを顕現するための道具としての言葉、という意味らしい。
抽象概念である言葉に、実はそのような効果があるからこそ、古来より呪術が多く行われてきたのだろうし、とりわけ昨今流行りの「自己啓発」系、なかでも「潜在意識」を云々するものには、それが顕著である。
同じ言葉、例えば「ポストで手紙を投函する」などのフレーズを一定数反復することで、ポストを見るや、そのことを思い出す・・といったようなからくりだ(ご存じのように、こうした仕儀を「潜在意識に刷り込む(落とし込む)」とか称している)。
確かに、マーフィー博士らの言うように、「寝ている間に湯水のごとくおカネが湧き出てくる」のであれば、それはそれで魅力あることなんだろう。
と、同時にそこでのいわゆるアファメーションは呪文であるとの見方もできるし、全体的にそれは呪術めいている。
呪物や薬草を使ったアフリカの原住民やマオリ族などの風習が、近代的な心理学用語と、物質的な願望達成に取って代わったと言え、そこには何かしら似たものを感じる。
すでに呪文にかかってた?
では、その呪文にはどんなものがあるの?
であるが、それはごらんのようにアブラカタブラ、チチンプイプイである。
日本において有名な呪文
ちちんぷいぷい
オン・キリキリ・~(密教)
臨兵闘者皆陣列在前(九字)
くわばら、くわばら(雷避け)
成るか成らぬか。成らねば切るぞ。- 成り木責めという豊作儀式で唱えられる木を脅す呪文。さるかに合戦でも同様の行為を見ることができる。
エロイムエッサイム、我は求め訴えたり(水木しげるの漫画、『悪魔くん』で使われ有名になる)
アブラカダブラ
ナンマイドーヤ
痛いの痛いの飛んでいけ - 怪我をしたときの呪文。手当て療法と共に、医学的には、そばに人が居るなどの安心感によって痛みの信号が軽減されるとしている(ゲートコントロールセオリー)。他言語でも同様の呪文がある。
ラテン語圏では、 Sana、Sana、culito(Colita) de Rana. Si no sanas hoy, sanarás mañana 訳「治れ、治れ、カエルのおしり(しっぽ)。もし今日治らなかったら明日治れ」
英語では、Kiss it and make it better などが見られる。
なんだか子供だましじゃあないか、と思うのと同時に、このうちのいくつかの呪文をかけられた(?)経験はみなさんおありだろう。
(「痛いの痛いの・・」とか(笑))
また、ここにはないが、小さなお子さんがおありの方なら、子供さんに普通に投げかけているような言葉も一種の呪文かも知れない。
「ねーむれ~、ね~むれ~」などの歌とか。
呪文の中身はそんな程度であって、それについて掘り下げるのは民俗学や神話学者らの先生にやってもらうとして、私が問題にしたいのは、
言葉というもの
その反復がもたらすもの
である。
いずれにせ、良くも悪くも「呪文」は、言葉が無ければその願いが成就しない世界ともいえる。
「願う言葉を口で十回唱えれば、それが叶うという字になる」という俗説は、何かしら潜在意識の刷り込みを思わせるし、そういう意味でむやみにその効果を否定はできない。
「お百度参り」や「願掛け」などの風習もあることだし・・。
そこで、その言葉は数回数十回数百回と繰り返すことで、効力(?)が発現するのかもしれない、という仮説すら浮かんでくる。その言葉の意味を知っていようが知るまいが、意識しようがしまいがである。
それは、実際にどのようなことを指すのか?
宗教と呪文
祈り・祓(はら)い
なんまいだぶ、なんまいだぶ(南無阿弥陀仏からの転化)
主イエス・キリストの御名によって~、アーメン (キリスト教の自由祈祷)
天にましますわれらの父よ、~ (キリスト教の主の祈り)・・・(後略)
「なんまいだぶ」に関しては、田舎のおばあちゃんがよく唱えていそうで馴染み深いし、今日「アーメン」に至ってはそれ以上に身近な誦句になっている。
また、「天にまします・・」とか「ジーザス」などは、ハリウッド映画で危機一髪、一触即発のギリギリのシーンでよく主人公が唱える言葉でもある。
言葉は悪いが、多くは「困った時の神頼み」である。
このうち、無宗教な私たちにさえ比較的身近な念仏は、信心されている信徒らが平素から唱えるものだ。
要は仏様の顔なり御神体を思い描きながら、その名号を繰り返し唱えることで、そこに何らかのご利益が期待される。
それを「呪文」と言ってしまえば、罰当たりなのかもしれないが、構造的には似てはいないだろうか?
まとめますと、というか、独断をかましますと(そーいや、昔「ゴーマンかましてよかですか?」=『ゴーマニズム宣言』なる漫画がありましたね)、
なぜですか?
あなたの思想・哲学がそれと共鳴したからでしょうか?
もちろん、そういう賢い角度から入られる方も中にはおられるでしょうが、多くの庶民は自らに何らかの問題、悩みを抱えており、それを解決・解消してもらえると見込んで帰依、入信します。
良くなりたいからです。
カネを払ってモノを買います。
そこには、たいそう儀式ばった段取りや祭礼が用意されます。
宗教にまつわる神秘主義や、位階、厳格な祭祀儀礼に多くの民衆は騙されてきた。
そうして、その「呪文」に、多く縛られてきた。
ところが、呪文というものは実際は宗教という枠組みを超えて、もっと広範にその影響を与えてはいないだろうか?
(↑なんかドキュメンタリー口調というか、、)
私たちは呪縛されている?
もっと正確には、二元性を利用して成り立っている。
よって、そこに何らかのプラスの動きがあったとすれば、必ずマイナスの反動がある。
人を殺めれば自分も死ぬ。
「人を呪わば穴二つ」とは、諺ではなく、物理現象だ。
そこに介在するのは言葉だ。
無意識に使っている場合もある。
しかし、それが繰り返されることで人は大きく影響を受ける。
現実に無いものも具現化する。
そのことがどういうことかは、過去に散々データがあるのではないか?
ナチスドイツにおけるヒトラーの演説
国粋主義を煽る大本営の発表
社会正義におけるワクチンの強要
・・・
そこで何が得られたのだろうか?
「いまこそ、○○をしなくてはならない!」
それは、そうした大きな社会的問題だけではなく、もっと身近に私たちの周囲に潜んではいないか?
「勉強をしなくてはならない」
「一流大学を出なくてはならない」
「まじめでなければならない」
「出世しなくてはいけない」
「競争に勝たなければいけない」
「金儲けをしなくてはいけない」
「社会の役に立たなければならない」
・・・
洗脳は健全な判断力を奪い、麻痺させ、廃人にまで追いやる。
これらは宗教ではないのか?
呪文ではないのか?
洗脳ではないか?
イメージの魔術師・清明の式神
たとえばそこに山がある、といった瞬間から、たちまちそれは「山」というイメージになる。小高かったり、急峻であったり、雪を頂いていたり、青々とした樹木が茂っていたり・・千差万別ではあるが、そういった諸々を含んだうえでの、それは地面が隆起している何かである。
当然、それを受けた側のイメージはそれぞれ異なるが、異なりつつも「山」という概念(十把一絡げ)で一つである。
そこに獣が走っている。
それを「犬」といった瞬間から、お馴染みの犬になるし、「秋田犬」や「トイプードル」や様々な犬種を指定すれば、あらかたは想定できそうではあるが、それはあくまでも種類を言っており、そこに走っているものを指さない。
イメージしか伝わらないし、イメージが一人歩きしているようではあるが、実はそういった瞬間からイメージをつくっている。
清明が式神(紙人形)に命を吹き込んで、蚊にしたり、美女にしたりしたというのがホントかどうだか分からないが、そこではむしろ見る側にヒントがありそうだ。
単なる紙を命のあるものに見せるには、そこに何らか呪符めいた言葉の効力がありそうだ。それが「蚊」であるとか「美女」であると命ずれば、そう見えてしまうのは、有名なゲシュタルト心理学にも通じる一大イリュージョンなのかもしれない。
実(じつ)のある言葉「言霊」
言葉とは、実体がないのにこのように隠然たる力を持っている。
しかも、その意味はそこそこに、私たちは日常その言葉を使い、意思表示をしたり、伝達したり、考えたりしている。
それはちょうど庭の飛び石のようなもので、それらの言葉を伝いながら、私たちは足早に池なり東屋という要件なり結論に到達する。
人というものではなく、重要なのはその人の中身であるように、
言葉という衣をまとったその中身、内容こそが大事なのではないか。
もし、である。
「言霊」というものを科学的に説明するならば、それは実は言葉の表層ではなく、その内容、込められた真意を表すのであればどうだろうか。
我が国が古来、「言霊のさきはう国」であるのと同時に「言挙げせぬ国」であったのは、その辺の事情を謂ってはいまいか?
つまり、滅多やたらに言葉を挙げるな、それが大事であれば黙っとれ! といったことではないか?
中身のない言葉は、すなわち「嘘」だからだ。
知らずに使っている言葉も同様。
もっとも、今となってはここで言う”その国”が一体どこの国であるのかは、昔語りの美風としてしか語れないのであるが・・。
後記
少々長くなってしまいました。
なんだか、話があっちに行ったりこっちに来たりでまとまりません。
ただ、このうえなく大事なことを述べている、または、述べようとしていることだけは自覚できているのですが、如何せん、私の能力を超えた世界をどうにも料理できません。
しかも、それは空気のように実態がありません。
そのうえで、私たちの思考や意思表示、主張、コミュニケーションといった日常生活が成り立っているのは不思議な気がします。
また、危うい気もしますし、嘘っぽい気もするものです。
そしてまた、私が「私」として成り立っているいわゆるアイデンティティというものも、言葉によって構築されています。
しかも、どなたもそうであるように、自ら好むと好まざるとにかかわらず、無意識のうちに多くの言葉によって刷り込まれたものがあるはずです。
それは、無自覚で、気が付かないものなのかもしれません。
それをここでも述べたように「潜在意識」という心理学用語で私は表したくはありません。そんなものすら仮想のもので、ただそこには「意識」があり、その構成物の一要因になっている、という捉え方の方が自然でしょう。
そうした、心理に向けて陰に陽に影響を与えている言葉を、ここでは「呪文」という言葉で表現しましたが、それを解くにはたった一つだけ方法があるように思えます。
それは、それをそうと気づくことです。
後記2
やはり、この項は何かある? ようで、一昨日投稿したものが反映されない(リダイレクトエラー?)という現象に見舞われました。よって、一度削除して、本日(20日)にわずかに手を加えて再掲しました。どうなることやら・・?
参考
0 件のコメント:
コメントを投稿