何も考えない人

2025年2月23日

雑感 身辺雑記

t f B! P L
 何も考えない人はこれを読まない。
これを読んだ人は何も考えない。
ここは、入り口であり、出口である。

考える人はこれを読まない。
考える人はもっと他所の何か──哲学なり宗教なり神秘思想なり心理学なり──を読む。
そこに活路を求めようとする。

それらは既存のものである。
既存のものは過去のものである。
考える人は過去を考えている。

過去を考えている人は悩みを抱えているか、
悩みそのものである。
過去そのものが懊悩であるから。

その中身は多く他人のものである。
考える人は他人の悩みを悩む。

そこで考える人は、その考え、もしくは考え方、アプローチそのものに疑いを持つ。

ところで、考えるということは
疑うことを含意している。
始めは自己の周囲・外界を疑い、
しまいには、自己を疑う。

自己を疑うものは、考えること自体を疑う。
考えることを疑うものにして初めて、それが自己をつくっていることに思い当たる。
自己が、何か底知れない他人の──よって人類の──集合意識(と呼ぶ人もある)から規定されたイメージであり、仮象(かしょう)のものであることが浮き彫りになってくる。



自己そのものは何もない。
何もないということは真空である。
真空は、何もないからこそ、あらゆるものを吸収しようとする。
ブラックホールのようにすべてを吸い込み
ホワイトホールのようにすべてを吐き出す

何もないところにこそ、途方もないパワーがあり、
恐らくはそれを「生命」とか「大生命」とか、
古来人類は畏敬の念を込めてそう呼んだ。

自己は何もないが、
このようにして自己の周囲には森羅万象があり、
ごく周辺には「自分」と呼んでいるイメージだけがある。
イメージは自己ではない。

自己否定はこのイメージの否定であって、
何もないそのもの(本体)は、神でさえも否定できない。

ところで、現代文明は愚かだから、
自己のイメージを自己と称して、その真空の何もない真の自己を無価値なものとして退けてきた。
そこに人類の悲劇の一切がある。
唯物思想は「生命」の否定である。

・・・

このようなことに思い当たった人は、何ごとかを考えつつ事にあたることが、なぜに葛藤や闘争を生むのかを味解する。
それをそうあらしめているのは自己ではなく、(通常自己と呼んでいる)自己のイメージがそうさせているからだ、と気づくからだ。

そうして、(通常それを愚かしく、軽率で、浅はかだと言われる)考えない人、考えずに即行動する人が、なぜに純粋で、ためらいやおもねりや権謀術数がなく、いかに開けっ広げで明るいものであるかが身に染みる。

そこにあるものこそ本来の(という形容も不要な)自己であるからだ。

そのように、何も考えない人はこれを読まない。
読む必要がない。

このブログは、そのような迷妄(雨)を抱えた人のよりどころであって、
いずれ雨が止む(迷妄が晴れ渡る)までの雨宿りの場である。

入口であり出口である。
出口のない入り口はない。



つぶやき《サイト未登録の件》

ところで、このブログは
だれも読んでいない、ということをご存じですか?

いや、正確にはURLをクリックされた方しか読めません。
もっと正確には、検索エンジンに引っかかりません。
さらに正確には、グーグルのクローラーが感知していません。
分かりやすく言えば、サイトが未登録、インデックス未登録状態でした。

つまり、ワープロと一緒ということです。

以前、何かの折に登録してあったURLを流用して、タイトルも管理者名も変えてみたりしたのがまずかったのか、「リダイレクトエラー」とやらで、目下対策を思案中。

何かとご不便をおかけしますが、しばしの間ご勘弁を。




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