曖昧Me、かく語りき

2025年2月8日

クリシュナムルティ 雑感 問題

t f B! P L
 私というものほど曖昧なものはない。
それが証拠に、「あなたの言う私とは何? 誰?」
と問われて即答できるものはいない。

社会的には、「私」を証明するために戸籍謄本やら、住民票やら、運転免許証、履歴書、職務経歴書、はたまたポートフォリオ、預金通帳、資産証明書、マイナンバーカードまで持ち出さねばならない。
なぜ私が「私」を証明しなければならないのかは謎でしかないのだが、無論いくらそうした「証明」を積み重ねても、それが「私」ではないことは誰しもが頷くことである。

なぜなら、あくまでもそれらは私が通過してきた軌跡であって、私そのものではないからだ。
つまりすべては過去のものであって、今こうして生きているその人ではない。
(ということは、世間はあくまでも「過去」に価値を置いており、というよりも、過去にしか価値を置かず、今を無視しているわけだ)

今生きている私は、一方ではここにあるような少々風変わりな問題を取り上げてみたり、他方では親類の抱えたプライベートな問題に干渉してみたり、ホームセンターで仕入れなければならない資材の寸法を調べてみたりの、つまり一言では言えないそれである。
しかも、昨日の私がイコール今日の私でないように、今日の私が明日の私であるかと言えば、明日は明日でまた違う人物である。

刻一刻と移ろう意識のようなものを「私」と称している限り、それほど不確定で曖昧なものはないだろう、というのが、その”曖昧な私”の一つの見解である。

曖昧さが明確さを求めること


曖昧Meである。
その漠とした存在である私が、あれやこれや考え、それに判断を下す。
実に危なっかしい曲芸ではないか?

判断を下す、ということは、つまりは決断であり、結論である。
おかしな喩えだが、そんなスライムのようなアメーバのような捉えどころのない意識体である私が、一体結論などというたいそうなものを導き出せるものなのだろうか?
もし出せたとしても、それはあくまでも暫定的なもの、断片的で一過性のものに過ぎないのではないか?

人はそもそも、そこに問題があるから、それについて何らかの答えを導き出す。
その最終的な答えが結論だ。




問題があって答えがある。
問題があれば、人はそこに何らかの答えを欲しがる。
なぜだろう?

それが方程式の解を導くように、あくまでも物理的、理論的であるということは、脳の構造がそうであるからに違いない。
当然そこには曖昧さを排除した明確さがある。

つまり、私たちはその脳のやり方にゆだねているわけだ。

先に述べたように、私たちの意識というものが極めて不安定で曖昧模糊としたものであるからこそ、それは確実性、明確さを求めてやまない。

それを私たちは「安心」と呼んでいるのかもしれない。

そして、その安心を求めるがために、問題を提起し、ときにはそれを探し、そこに答え、すなわち結論を導くのかもしれない。

俗に「腑に落ちる」とか「腹に落ちる」とか言った感覚もその親戚なのかもしれない。

そこに問題があることが問題なのだ?

しかし、冷静にただ観察してみると、実は「問題」というものは単なる客観的な事象であって、それを個々人が「問題」としているにすぎないのではないか?

事実、Aさんが問題視していることが、Bさんには何の問題でもないなどということは普通にある話だし、問題自体がさっぱり見えないなんてこともある。

そこで、こうも言えるのかもしれない。

始めから問題というものはない。
人の思考が問題をつくっている。
それを問題にしない限り問題はない。
前述のように、そうでない限り、それは単なる事象であるからだ。

K(クリシュナムルティ)は、問題の中にすでに答えがあると言った。
だから、むしろ大事なのは問題であって、答えではないと。
それでは、人が何ものかを「問題視」するのはどういった時なのだろうか?

たとえば、雪が降っている。
それは何も問題ではない。
しかし、雪そのものを問題にする者もいるだろう。
なぜなら、ご存じのようにそれが一定期間降り止まず、1m以上もの積雪になる可能性も秘めているからだ。
そうなれば、問題はごっそりとそこにあふれ出す。
交通はどうなるのか、屋根の雪を下ろさなくては、共有の通路をつくらなくては、通勤への影響は、クルマのタイヤにチェーンを巻かなくては、食料品の確保は・・・
想定されるそれらの問題に答え(解決策)をあらかじめ用意してあれば、粛々とその行動をとればいいわけで、もはやそれは”問題ではない”。

もちろん、そのように絵に描いたように物事は首尾よく進まないにせよ、いざ、問題が浮上してから慌ててその行動に臨むのではなく、問題が問題になる前に解決することが実は一番の問題解決なのかも知れない。

さて、これはもちろんほんの一例であって、雪を見たこともないパプアニューギニアの少年には問題として挙がることもないし、当然その解決などといった面倒もない。

同様に台風や地震、津波、その他の自然災害についてもそのような事前の解決策や警戒が重要であるのと同時に、それがなかなかに一筋縄ではいかないところにいつまでも大きな問題として挙げられているわけである。

知らない、分からないという知見

さて、こうして見てきたのはあくまでも「外面的な問題」である。
しかし、お気づきのように、問題には「内面的な」それもある。

前者を形而下学的な、物理的な問題、後者を形而上学的な、心理的精神的な問題、と言い換えてもいいだろう。
前者が、先ほどの方程式を解くように比較的明快な答えが導かれるのに引き換え、後者はよほど難題である。
あるいは、両者は全く別の性格を持つものなのかもしれない。

内面の問題と言えば、こういうことだろう。

例えばある人に好意を寄せている。
その人に自分がそういう気持であることを伝えたいような、またそうと悟られたくないような微妙な心理である。
だから、普段はなるべく平静を装って、時に冷たく接している。
それでいて、隙を伺っては優しい言葉をかけてみたりして自分に注意を向けてもらうような行動に出る。

とはまあ男女の恋愛感情に見る複雑さの一例だが、日常生活では、ほかにも同様の心理的な機微というか、駆け引きのような関係性が構築される。

さらには、例えば、「真理」とか「神」「善悪」「美醜」「愛憎」などの問題に分け入るものもいるだろうし、中には不幸にしてそれらの問題に結論を出すものもいる。
宗教や哲学や何らかの教条に縛られることは、それは内面の探究を放棄したようなものであり、結局のところ自らそうあることを選んでいるわけだ。

さて、思考というものは短絡的であるか、複雑さを装いつつ狡猾であるかのいずれかだ。
そのように私は思う。
それは、いつも周囲に日和ったり、おもねったりするうえに、そうしながらも、すばしこく自らの田んぼにいかにして水を流し込むかを目論んでいる。
そこでの「問題」は、あらかじめ自分に分の良い「答え」を持っているし、また自身がその答えを知っている、持っていると思い込みがちだ。

知らない、分からない、ということはあくまでも知らないし、分からないことである。
少なくとも、その内面の形而上学的な問題は、あるいは知らない、分からないが正解なのかもしれない。
なぜならば、それらが私たちが身辺のさまざまな外面的な問題に答えを出すような3次元的な世界の問題ではないからだ。
それらを私たちの高慢さでもって、3次元上で無理くり答えを出そうとすることこそ、もしかしたら様々な問題が解決せずにくすぶっている真因なのかもしれない。

「知らない、分からない」ということの奥に、実は果てしない答えが横たわっている。
少なくとも未知の世界が、この世的なアプローチでその扉を開くことはないのだろうから。























このブログを検索

Archives

Translate

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

QooQ