何で自分はこんなことばかり書いているんだろう

2025年3月13日

スピリチュアル 雑感 真理 問題

t f B! P L
 まさにタイトル通り。
ひょいと頭をよぎるそんな感慨。




「こんなん、だれが読むんや」

「つまらん、お前の話はつまらん」


(大滝秀治さん、この一言のためにご登場願い、大変失礼いたしました💦)

追い求めるもの「それは真理か願望か」

いや、このようなことを書きますと、せっかくお越しいただいている読者の方にも失礼に当たりますのでもう差し控えますが、世の中の関心というものは、少なくともここのような場所にはありません。

驚くかもしれませんが、大方の興味は極めて実務的実用的な「○○の使い方」とか「より良い〇〇の仕方」とか、「○○になるには」などの実生活の延長です。
そして、ものの考え方も和辻哲郎であり、ヒルティであり、すなわち倫理的で内省的なそれです(というよりも、正直申し上げて、何であれ、そうした権威やアカデミックなものにあずかりたいという性向が大多数です)。

しかし、あるいはあなたもそうであるかもしれませんが、そこからもっと人生に物語性を求める者もいるわけです。

SNS的なNoteのサムネをざっと瞥見すれば分かるように、おそらくはもっとアグレッシブで、センセーショナルで、ロマンがあり、夢が広がるものが人気なんでしょう。
これは昔も今も変わりません。
人は、どこかに逃げ出したいものだからです。

それはアニメや漫画、小説、映画、ミステリーなどから始まり、いわゆるスピリチュアルの世界、ここを離れた異世界、銀河宇宙にまで拡大し、しかして哲学や宗教にまでそれを追い求めようとします。

こう言う言い方は顰蹙を買いますが、このことが何を表すのかというと、スピリチュアルや宗教、哲学──仮にそれらを「真理」という言葉で表せば──は、アニメを観るように、漫画を読むように、自己の何らかの欲求を満足させるエンターテインメントと変わりないのではないでしょうか?

追い求めている幸福? が着地点になっている。
自己(エゴ)がそこに必ず手を加えているように見えるからです。

もちろん、あなたはこの意見に同意される必要はありません。
ただ、私はここにこだわります。

そりゃー私だってそんなことあんなことに

そりゃー、なんだい?
この私だって、好きなことはおおいにありますよ。

どこか山奥の温泉に入ってのんびり・・ヤマメやイワナの焼き魚をつまみに地酒をチビチビ・・そんな悠長な旅の思い出をしたためて・・年の三分の二ほどは日本全国を巡る、なーんてどなたも考えそうなことですね(笑)

または、好きなくーねるさんの動画にあるように、山奥の古民家のようなところに移り住み、そこで自家菜園を作ったり、山菜を取ったり、海に出てはカヤックを操り、素潜りで魚や貝を採ったり・・。
「この里山にも春の訪れを告げるフキノトウの芽も膨らんできました」だとか・・(笑)。


いずれも、なぜ山奥なのかは謎ですが、現実的ではないのと、体力的な問題で実現していないわけですが、そんなロマンと言えば、この私は人一倍にあるわけです。

若いころ、部屋はUFO関連の書籍で一杯でしたし、いわゆる古史古伝(超古代史)の世界に首ったけで、そこにある壮大なロマンの世界に浸っていたものです。(←とはいえ、会社やそこでの人間関係には滅多にそれを持ち込まず、あくまでも「コモンセンス」を建前にした紳士でしたが・・まあ二枚舌ですね)

さらに若いころは、嬉し恥ずかし友人らのアマチュアロックバンドにうつつを抜かし、ドラムを叩いてもおりました。もちろん化粧などはしないまでも、ストーンズやT・REX(😂)などに心酔していた時期もあったなあ(💦💦)
悪ぶってたなあ。
ビートルズのあまりにも有名なアビーロードのアルバムジャケットのジョンを真似て、白いジャケット(の下は裸)で、当時の古巣、池袋のスタジオに悪友らと繰り出してたっけ。
スラックスは、パンタロンかベルボトム(←😅)、靴はヒールの高い自称ぽっくりシューズ(←😇)。
その写真は封印したまま死んでも墓場まで持っていかざるを得ません💦

それでいて、仏教哲学などに惹かれる。
大いなる矛盾こそ自分の真骨頂で、大学時代などはブレスレットをシャナシャナいわせ、流行りのファッションに身を包む、などの軟派じみた男でしたから、「ホストのバイトでもしてるの?」と訊かれる始末でした。しかし、実態はなんとも生真面目な、田舎の哲学青年のようにそれらの問題と向き合う日々だったのです。
困ったことに「そうみられたくない」性分なのです。


「有限の外界から無尽蔵の内界へ」楽しみはそこにある

さて、話を戻しますが、
あなたも、私以上にさまざまな趣味やロマンをかき抱いているお一人かもしれません。
それはそれで大いに結構だし、月並みな言い方ですが、人生に彩りをもたらすものでしょう。

しかし、どんなに楽しみや喜びの渦中にいても、または、どんなに高邁な哲学書を読んでも、何かどこかに素面な自分がいませんか?
それは、冷めているというのではありません。
ひねくれているような見方ですが、ちっとも面白くない、そんなんじゃ楽しめない、という不機嫌な? 自己が・・。
もっと言えば、先ほどのNoteのサムネ画像ではありませんが、そのどれ一つとして面白くない(実際は記事の内容ではありません)という現象が。

それは、すべて自分の「外界」のことだからです。
これは、私の経験上の話なので、話半分に聞いてほしいのですが、

人はまず、自分の外界に何ものかを追い求めます。
どうでしょう?

旨い食べ物にせよ、旨い酒にせよ、和辻哲郎にせよ、ショーペンハウエルにせよ、ニーチェにせよ、ドゥルーズにせよ、岡潔にせよ、西田幾多郎にせよ、南方熊楠にせよ、稲垣足穂にせよ、モンキー・D・ルフィにせよ、鬼太郎にせよ、・・・全部、自分の外界でのものですね。

とかく思想的な面では、最初から独自の世界観を持ちました、なんて方は少ないでしょう。
いや、漠としたそれはあったにせよ、まずは既存の文学や哲学宗教などにそれを探ります。当然ながらそうする以上術がないとはいえ、それらは全部他人事であり他人言です。

「どうやら、そこではないな」

この感覚です。
これは最後まで(死ぬまで)芽生えない方の方が多いでしょう。
人はどこか他人の思想で相撲を取るものだからです。

しかし、中には数年、数十年後にそれに気づくものもいるわけです。

「すべて自分のものではないな」

「自分のものじゃなければあの世に持っていけないじゃないか!」(←これは無視して結構)


だから面白くなかったのです。
どこで何をしても、それはそれで愉快だったりはするものの、後で何かしら虚しさが残る。

おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

です。

自分の眼前、皮膚から数センチ、
あるいはその内面、深奥、、、

そこは未開の世界、未知の世界です。
外ではなく、内に拡げる。

外はどこまで遠くに行っても「知る」という手掛かりの世界、
モノの世界。

内はおそらくは知りえない世界、
未知の世界。

探検するにはそれほど面白い世界はないのではないでしょうか?


















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