過去に数度「あの世に持っていけるもの」的なお話を書いた。
(いま読み直してみると駄文ですが💦)

いや、別段辛気臭いお話をしようというのではない。


どーやら自分自身が、「高齢者」の仲間入りの年齢に差し掛かったこともあるのだろうが、この”命題”は、年齢にかかわらず、どのような生を生きるのか、というテーマに直結する。

とはいえ、世間には「人生をどう生きるか」といった生真面目な青春哲学(?)があるが、「人生を半分以上生きてしまいました」「もうほぼ詰んじゃってますけど」的な人には、ちょっと「時すでに遅し」感が否めませんね?

でもご安心。
そもそもの人生に「どう生きるか」もないし、「意味」もない。老いも若きもない。
現実は、あなたも私も、すでにどうもこうもなく生きているわけだし、それに意味を持たせたり陰影をつけたりするのは、すべて私たち次第といったところである。

ということは、ここで「○○である」云々を決め打ちすることは蛇足である以上に嘘である、ということを含んだうえで、一緒に考えてみようではないか。


歳をとる、ということで確実なことは、その分人生経験を積み賢くなった、多方面から物事を見られるようになった、角が取れて温和になった・・とかいうことではない。

なぜならば、例えばずる賢くなった、意固地になった、頑固になった、厭世的になった、ボケてきた、さまざまな病を気にするようになった・・など、むしろ一般的にはマイナス面の数の方が圧倒的に多くなるように思えるからだ。
しかも、前者は見方を変えれば、バイタリティ(意欲)が減衰してきた、八方美人的に物分かりがよくなっただけ、などと取れなくもない。

かように、どうやら加齢というものは劣勢である。

では、歳をとることによって、圧倒的に優勢になったということは何か?

それは、俄然死ぬ確率が高くなった、ということに尽きる。

老後のことなどについて身近なもの同士が話し合うときに、否が応でもここを確認させられることになる。

(もちろん何があるかわからないよ、一番若い〇〇ちゃんが先かもしれないし)などといった前置きを挟みつつ、「順当に言ったら年長のあなた(私のこと)がいなくなって、次に私が・・」

「なんとも殺伐とした人生であることか」と思えてしまうではないか?

「先に死ぬことにかけちゃ、そんじょそこらの若いもんには負けられねえ」なんて(笑)

(ちょっと、ここでお茶でも啜りたい気分ですが、次に行きます)

ところで、あなたホントに死にますか?

嫌な見出しですね。
でも、つい出てきてしまったのでしょーがありません。
後付けで考えてみます。

死んでしまっても、「実は(ホントは)まだ生きてるんです」などと枕元に立たれては何ですが、おそらくはあなたも「人間っていつか死ぬわけだけど、この自分が死んで何もなくなってしまうなんて考えられない」などと一度や二度考えたことがあるでしょう。
(中には、まだその考えを止めずに(笑)、「霊」だとか「スピリット」だとかアストラル界だとかまで旅をする人もいますね)

そう、なんだかすべてが冗談のような・・
(♪冗談だよと~笑って~欲しい~)

この感性って、言葉にできずうやむやなままではありますが、なんだか正鵠を射ている風に思えるんです(←つまり、実際は死なない、死なんてないということで、それは人間の願望からのそれではなく、存在そのもののあやふやさからの類推)。

まず、死の問題を云々する前に、生とは何ぞや? が分からなくてはならないが、それがたとえどのような形で分かったにせよ、その一切を即座に否定し、葬り去ってしまうのが「死」というものであることを確認しておく必要がある。

それは、この世的にAはBであるということではないということ。
あるいは、AはBではない・・でもない。

Aが無くなることを「死」と呼んでいるからだ。

盛ってもだめですよ、ということで、そこに物語やおとぎ話、空想、幻想などの入り込む余地はない。

一巻の終わり、とはこのことを言うのである。
なんとまあ、潔いことではないか?

よくよく考えてみてください。
いま、このようにやれ生がどうしたの、死がどうの、うんたらかんたら書いてはいますが、明日になればそんなことを置き去りにして、仕事上のあれやこれやや、どこそこのラーメンは旨いにはうまいけれどちょっと求めていたものとは違う、などとあなたや私は言ったりしているはずである。

そうですね、それは出発点からして気まぐれな、もしくは趣味人的な、閑人の世迷言といっても差し支えないではないか?

旨いラーメンやスウィーツを語るようにそれはある。
それらが大した問題ではないのであれば、生も死もたいそうな問題ではない。
お茶飲み話である。


生まれては死ぬという狭い考え

お気づきの方もおられるかと思いますが、なぜそんなにもナンセンスに堕してしまうのかですが、それは、私たちが終始考えていることによるものだからです。
いや、考えそのものが私たちです。

生も死も、その概念は大昔のどこかだれかの発案に違いない。
そんな言葉が生まれる前は、ただそこにそれがあった。
それは生でも死でもないものである。

しかし、生とは、あるいは苦しみである、愛である、喜びである・・と始まって以来、生はむしろ煩悩になった。
死は(避ける必要もないのに)避けられないもの、別れである、二度と生き返ることはない・・などと思いあぐねていることが、それを恐怖と見るようになった。

その意味で生死は単なる対立概念であり、そんなものはない。

いずれも人間の「考え」という狭い狭い枠組みに生死を収めようとしてしまったことによる悲劇(喜劇?)である。
むしろ、その意味では生も死も、あまりにもプライベートでローカルな「思考」というエゴが生んだとらわれであり、だから妄想である。
それはちょうどあなたが「私」と呼んでいるそのものや、私が「私」と呼んでいるそのものが実は実体のないものであるのと同じように。

Kことクリシュナムルティ氏も言うように、いやKから私が学んだように、思考というものは時間の推移をもたらす。
実はそのままの時空をA地点からB地点まで移動するように見せかける。
その推移した時間、実際の生活の場である空間を、私たちは人生と呼んでいるに過ぎない。

生も死もない。
あえてそれに永遠という言い方を避けるのであれば、
思考こそが「生」と思い込んでいるものの正体だ。

それが止むことを私たちは猛烈に恐れる。
それこそが死を恐れていることの内容だ。
死ではなく、思考が止むことを恐れている。

ではなぜそうであるのか?
私たちの頭脳は、既知のこと以外を受け入れられないからだ。
既知しか知らないというのは言葉遊びであるが、だからこそ頑なにそれを守ろうとする。

未知を受け入れがたい。
知っていることからの類推でしか未知を語れない。
しかしもちろん未知は推測や予測ではない。

しかし、安心し給え。
突然、それはやってくる。
私たちの準備や用意が整わないうちにである。


なんにもいらないから

勾玉か、愛用の櫛か、カツラか、
槍か刀か竹弓か、

副葬品は何にする?

指輪かピアスかネックレス?
お気に入りでよく着ていたセーター?
はたまた地元銘菓の「萩の月」?
抹茶かずんだの「喜久福」か?
いやいや甘いのはさほど好きではなかったなあ、
さいちのおはぎは別として・・
とどめは(何でとどめ刺すのか知らんが)やっぱり日本酒か、
山形の豊潤な「米鶴」か、栃木の古い蔵元の「仙禽」か・・

って、それらはみーんな思い出の品々。
当人の思い出ではなく、
あなたの思い出。

当人の功績や
遺墨、
書き残した手紙や文章、
ぜーんぶ、当人のそれではなくあなたの思い出。

冥途とはいうけれど、
そんなもの何処にある?

この世とは言うけれど、
それはあの世から見たこの世である。

あの世とは言うけれど、
それはこの世から見たあの世である。

この世にいるのであればあの世にまっしぐら。
先には進むが、
停滞や後戻りはできない。

モノだけではない。
名声や権威や名誉や見識・・
それらで身を覆っても旅路の重荷になるばかり。

あなたしかいない永遠の旅路の。





















このブログを検索

Archives

Translate

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

QooQ