真理はただ在るもの──はじめもなく裏もなければ前提条件もない
さて、平和のためには戦争が必要でしょうか?
美を際立たせるために、多くの醜さが必要でしょうか?
善を成すには、悪の背景が必要でしょうか?
愛を実感するために、多くの憎しみの壁を乗り越えるべきなんでしょうか?
このように、私たち人類の抱えるテーマの中には、その他もろもろのこととは毛色が違う一連のものがあります。
少なくとも、上記の答えにはYesはないはずです。
しかし、よーく胸に手を当てて振り返ってみますと、私たちのやっていることはそれらにYesを下すことばかりではないでしょうか?
なぜ、それらに「Yes」を言うのでしょう?
さながら「白が映えるように、バックを暗くしますね」とでも言うように
その辺にある物事の条件付けにあるような、そのためのしつらえを用意するように・・。
愛や平和や美や善、真理らを、
それらを誰かが語ってきたことを、
朝、洗面に向かうように、
歯磨きをするように、
鏡に向かい化粧をするように、
鼻歌交じりに鵜呑みにして来はしなかっただろうか?
戦争が無くなっても平和は来ない。
この世から醜さを一掃しても美は輝かない。
悪をことごとく殲滅しても、そこに善は花開かない。
憎しみの果てにあるのは、さらなる憎しみだ。
真・善・美、愛、平和・・・
それらは、私たちよりもずーっと先にここに在って、
そしてこれからも在るものではないだろうか?
たとえば愛、
それを私たちのちっぽけな、限定された「考え」で、
どうしてとらえることができるのだろうか?
私的で対象があるものは執着である
「愛」とはよく使う言葉です。
しかし、愛は私的なものでしょうか?
または、それは何か(対象物)を愛することでしょうか?
私が何かを愛するとします。
ここには「私」と「何か」が同時に在ります。
私的で、対象があるものです。
それは「愛」でしょうか?
あなたが息子や娘、ワイフを愛しているというとき、それは果たして「愛」でしょうか?
それとも、何か別なことを意味しているのでしょうか?
愛が「私」に限定され、しかも何らかの対象があるとき、それは執着です。
いえ、それでも「愛」と言うのであれば、それは執着を伴った「愛」です。
しかし、「愛」に執着は在るのでしょうか?
むしろ、それとは真反対の何かではないでしょうか?
雨が降っている。
それを「愛」としましょう。
それだけが「愛」であれば、あなたは雨が降っている状態を愛しているのであって、そうでないときは愛してはいません。
しかし、雨が降っているという限り、そのためには雨が降っていない状態が不可欠です。
あなたはそれを愛せるでしょうか?
あなたが白を愛しているのに、黒も同様に、いやそれ以上に愛せるでしょうか?
しかし、その「全体」こそが愛ではないでしょうか?
もしそうでないのであれば、論理的にも明確にその愛は偽物です。
思考では愛に届かないばかりか離れていくばかり
私は、嘘や偽善が嫌いです。
だから、これまで世にいうところの「愛」や「美」「善」「真理」といったものに食い下がり、それに噛みついたりしてきました。
それらはおそらくは見る者の角度こそ違え、同じものを指します。
私は、ことごとく人の手垢がついたそれらの虚像を壊そうとしてきました。
また、”言葉の綾”的な収まりの良い理論や理屈には懐疑的です。
たとえば、すでに述べたように「全体を愛する」ことが、愛の真実を語るものであったとしても、私個人は納得しません。
それが、「理論的に」正しいのであったとしても、私の感性がそれを拒否します。
私は理論ではなく、もっと多汁質であり、情動的であり、気まぐれで、俗っぽく、浮気性で、官能的であるからです。
それを「低劣だ」「劣悪だ」「修行が足らん」といくら糾弾されようが、私という一個の存在は頑としてそれになびきません。
私というものは、善であれ悪であれ、愛であれ憎しみであれ、いかなるそうした固定概念でもってしても、とらえがたいものではないでしょうか?
第一、私がなぜに完全なものでなくてはならないのでしょうか?
愛や真善美が全きものであったとして、なぜにその物まねを演じる必要があるのでしょうか?
なぜ、完全なものを愛とするからと言って、そうあらねばならないのか?
愛は果たしてそのようにして「獲得する」ものなのか?
なぜ、完璧な、非の打ち所のないものになる必要があるのか?
また、そうしたものになることができるのか?
出来たとして、そうした人物はむしろ”食えない”ものではないだろうか?
ひたすら抱かれ、包み込まれているもの「愛」
はなはだ矛盾するようでなんですが、私たちの感覚・感受は優れてはいるものの断片的であって、部分的です。
宗教、とりわけ仏教、なかんずく禅ではその感覚こそを悪魔として退けました。
それ(感覚)が、偏頗で刹那的であり、実際の事象を映し出さないからです。
しかしどうでしょうか?
だからと言って、私たちは思慮深く、物事を透徹して見通したりできるのでしょうか?
また、できたのでしょうか?
《ここでの問題は非常に難しいものですので、私の述べていることの真偽以上に、あなたご自身で先に進めてください》
──さて、ようやく最後に『雨が止むまでの記録』にたどり着きました。
実はこのブログの「はじめに」でも明かしていますが、「雨」は「思考」「考えること」のメタファーとしての雨です。
いま、「愛」について考えようとした矢先ですが、愛は「考えて」初めて分かったり、導き出されたりするものでしょうか?
もしそうであったとして、「愛とはかくかくしかじかのものである」のでしょうか?
それとも、ひょっとして考えることが、それを台無しにして来はしなかったでしょうか?
考えることは、その事物をほとんど正確には捉えません。
なぜなら、それは、言葉やイメージ、概念といった過去の残像で把握しているだけで、まったく今のそれではないからです。
戦争が何かを知るには戦場の瓦礫の中を孤児たちとともに歩かなくては分からないし、戦火から離れた平和な場所で、なにがしかを述べることは、単なる「想像」でしかありません。
戦争が「悲惨」で、「繰り返してはならない」ことであることは、口に出さずとも戦地の方々が一番よく知っているはずです。
そうした講釈ではなく、なぜに戦争があるのかを深く考究すべきではないですか?
愛、平和、そして真・善・美といったものは、この項の前篇『ただそれだけのこと①《止まない雨はない》』で挙げた波形のグラフのうち、一体なんでしょうか?
それは、点でも線でも、その全体でもありません。
それらが存在する無辺の空間ではないでしょうか?
(空間がなければあらゆるものは存在できません)
私たちはただひたすらそれに抱かれ、だからこそ生きているのではないでしょうか?
愛は何もできない。
愛は何もできないが、それなしには、何もできない。愛は悲しみではないし、それはまた、嫉妬から作り上げられない。それは危険である。それは破壊するからだ。それは、人が自分自身のまわりに築いてきた物事すべてを、煉瓦以外、破壊する。それは、寺院、神殿を築けないし、また、腐っていく社会を、改革できない。それは何もできないが、あなたが何をしようとも、それなしには、何もできない。愛は、問題を持たないし、そういうわけで、それはこうも破壊的で危険なのである。人は、諸問題によって、生きる - それら未解消で継続的な物事によって、だ。それらなしには、人は、何をすべきかを、知らないだろう。人は、迷ってしまうだろうし、失う中で、何をも得ないだろう。だから、問題は、果てしなく増殖する。一つを解消する中で、また別のがある。しかし、死はもちろん、破壊である。それは愛ではない。死は、老齢、病気である。それは、愛がもたらす破壊ではない。愛がもたらすのは、死ではない。それは、気をつけて築き上げられてきた火の灰である。愛、死、創造は、分離不可能である。あなたは一つを持って、他を拒否することは、できない。あなたはそれを、市場で、または、どの教会でも、買えない。これらは、あなたが一番、それを見つけないであろう所である。──Krishnamurti’s Notebook(和訳『クリシュナムルティの神秘体験』、『クリシュナムルティ・ノート』=クリシュナムルティ引用より)
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