自分は特別なんだという意識

2025年4月11日

スピリチュアル 雑感

t f B! P L

 

自分は特別なんだという意識は
はじめから去来しない。
生きていくうえでの経験──優越、失敗、差別、虐待、いじめ、失望、孤立、孤独、疎外──の中からはぐくまれる。

自分は特別なんだという意識は
自分はどこかに欠陥があるのではないかという意識と同様、
他者比較によってはじめて顕れてくる。

やがてそれら経験に「意味づけ」をする。
だからそれは、すべて自己憐憫に基づく自己顕示欲という一つのコンプレックスであり、分裂である。

もし、あなたを取り巻く環境が、あまりにも劣悪であったのであれば、特別なのはあなたではなく、環境である。
あなたはすっかり外界と同一視しつつある。
それに向かう前に、それは癒されなくてはならない。



ここに、そうした痛みを紛らわす媚薬がある。

スターシード
スターピープル
スターチルドレン
クリスタルチルドレン
レインボーチルドレン
インディゴチルドレン
ライトワーカー
ライトウォーリア
選ばれしもの・・・

これらの真偽は問題ではない。
問題は、これらと気安く同一視することで腑に落ちるその心理である。
これらの特性が「この世界に違和感がある」「生きづらさを感じる」ことだからだ。

私は思う。
これらの名辞(ワード)が表すものはあるだろう。
しかしそれは、同一視によって届くものではない。
天使にせよ妖精にせよ、それはそれだから。
同様に、あなたはあなただから。

自分は特別なんだという意識は
特別な者にはない。
なる必要がないからだ。

特別な者には特別がない。
だから特別である。

凡庸なものには特別がある。
だから凡庸である。







後記


自分が特別である、何か他の人々とは違うのではないか?
なんで、こんなに生きることがつらいのか?
なぜ、このような(つらい)目にばかり合うのだろうか?
なぜ、自分はここまで他人との間に距離があるのだろうか?
なぜ、自分が普通にそう思っていることが他人はそうでないのだろうか?
これらのことをなぜそう思うのだろうか?

おそらくは、どなたにもそういう風に思う瞬間はあることだろうし、
なかにはずーっと、そんな意識を引きずっている方もいることでしょう。

私もその一人です。
しかし、「違う」とは思うにせよ、「特別」とは思ったことがありません。

人間はみな違いますね。
違って当然です。
ただ、何がどのように違うのかを自分自身で認識しておくことも重要です。
上辺の違いは、同じことと変わりありませんから。

「違うこと」は果たして正しいことなのでしょうか?
それとも間違ったことなのでしょうか?

一方で、「(他人と)違ってはいけない」といった風な意識も根強くありますね。
これは裏に全体主義的なニュアンスがあるので無視してよい。

このことで付言すれば、特に日本人はそうした教育の洗脳から抜け出していません。
すぐに右倣えをします。
卑近な例で言えば、着るものにせよ、いつも「みんなはどうなのか」ばかり気にする。
「みんなまだコートを着てないからやめようか」とか。
ところがたまに見かける欧米人はそういうことはない。
夏でも肌寒ければセーターを着たり、冬でも短パンを履いて平気である。

さあ、違って当然、という気概で行きましょう!
その「違い」こそが、人類意識(というと大仰ですが)を拡大してゆく宝なんですから。
決して、「みなと同じ」という安易な道に”後戻り”しないことです。





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