ただそれだけのこと①

2025年4月4日

クリシュナムルティ 問題 老子

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雨が降っている、ただそれだけのこと


こうしたお話を面白く思える方、くだらないと見る方の二つに分かれます。
前者は「子供の眼」をいまだ持っておられる方、
後者はそれを捨ててしまった方でしょう。
思うに、子供が自由であるのは、とらわれていないからでしょう。

このブログのタイトルは、ご存じのように『雨が止むまでの記録』といいます。
また、noteの方は『雨が止んだら』です。
ありがちなものですが、お気づきのようにいずれも「雨」がキーワードです。
その「雨」が何の隠喩であるかは後述するとしまして、今日のように普通に雨が降っている景色を想像してみてください。

あまり馴染みのない見方、考え方でしょうが、
雨が降っているということは、それまでの一定期間は、晴れていたか曇っていたかで、雨が降っていなかったということをすでに含意しています。
しかも、それはまた同時に、その雨はいずれ止むことをも示唆しています。
(当たり前と言えば当たり前のことですね──しかし、この「当たり前」ということが大切に思えるのです)

もし、雨が大昔からひねもす間断なく地上に降り注いでいるものであれば、私たちは「雨」を意識しません。それが「降っている」という感覚すら持たないでしょう。
もしかしたらカエルみたいな人間になっていたかも・・。
おそらく海や川の中で、さも気持ちよさげに泳いでいる魚たちが別に「水」を意識していないのと同様に。
それらは、もはや環境の一部となっているからですね。
私たちは、すでに自分のものになっているものをあえて認識しません。
それが当たり前だからです。

それがあるために必要なそれ以外のモノ

ここから、少し進んでみましょう。

何かを「おいしい」と感じるためには、そのバロメーター(基準値)があります。
おいしいという突出した感覚の裏には、「普通だ」「さほどおいしくない」「まずい」などを含むさまざまな認識があります。
もちろん、そこには味覚だけではなく、触覚、臭い、見た目の美しさなどの五感が総動員されています。
しかもそう感じる感覚は必ずしもみなが一緒ではなく、その「精度」にはばらつきがあります。
それでいて、瞬時に「おいしい」のです。
なんともすごい性能? ではありませんか、私たちの感受・感覚は。

何かを「好きだ」という認識は、「嫌いだ」というのとさほど変わりません。
何か特定のモノ(映画でも文学作品でも人でも異性でも・・)を「好き」ということは、それ以外を「普通」か「さほど好きでもない」か「嫌い」か「大嫌い」などといった認識がなければあり得ないからです。
「嫌い」は好きのもとであり、「好き」は嫌いのもとです。
それは、つまり選別であり、比較であり、エゴイズムでもあります。
ここでは、それが「いい」とか「悪い」ではなく、ただ「そうである姿」を言っています。

これらは、あなたが認識し、行動するあらゆる行為に当てはまります。
何かを「重要」としたり、「価値」をつけたり、「美しい」と感じるそれら認識には必ずその裏があります。
いえ、「裏」という捉え方に、詮索しているような感じを受けるのであれば、認識のその全体像を据えて見てみようということです(表現は小難しそうですが、単純なことです)。



すべてを「現象」として捉えるのであれば、それは波です。
上図の波形のピーク点をその「何か」に充てると、それをわずかに、または大きく下回るそれ以外の波形(部分を切り取れば点)が繋がっていて一本であることが分かります。(言うまでもないことですが、それ以外の波形とは、その「何か」をそうあらしめるための一切を指します)

何かを「正解」とするには、無数の「不正解」が必要ですし、仮に何か一つを「善」と規定するならば、自ずとそれ以外を「善ならざるもの」と見做しています。
となれば、私たちが何かしら”たいそう”な発言なり発表をしたり、何かを主張するということは、実際はそれにそぐわない多くをこそげ落とす行為だとも言えます。

天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪(みにく)さ(の観念)が出てくる、(同様に)善を善として認めること、そこから不善(の観念)が出てくるのだ(後略)──『老子』上篇第二章=小川環樹訳

理屈づけは不要

いずれにせよ、感覚・感受というものはまず逸早く、瞬時にしてやってきます。
それがないと、私たちはおそらく生きていくことが困難でしょう。
危険を察知できないからです。
世界の認識の最前衛がこの器官です。

ところが、この感覚というものが多くの場合、事象のオモテッツラのみを捉えていることにより、様々な間違いをしでかします。人は平素、上の波線グラフで言えばピーク点、一点のみを捉えて云々して、とかくその全体像を無視したり忘れていたりするからです。
ものごとの二元性をつい忘れてしまうからですね。

東洋、特に私たち日本人というものはこうした感覚・感情を大っぴらに現わすことを何か大人気のないこと、思慮が浅いこととして慎んできたきらいがあります。これには、古来から伝統的に事象を全体的に捉えることが正しく、その一点のみを(まして私的感情を)表出することは誤りである、はしたないことである、という自覚があるからでしょう。
一方、欧米、特にアメリカ人というものは率直というかダイレクトにそれを表情や身振り手振りで表すようです。だから、彼らの眼からすれば我々日本人はいったい何を考えているのか知れない、と訝しがるわけですね。

前者を老獪で哲学的とすれば、後者は単純で幼稚であるという見方もできるし、前者が嘘つきであって後者が正直であるとも言えなくもありません。
「噓つき」というのは、感情を一旦呑み込んで蓋をしているからです。

さて、ここで物事の認識は、そのような二元性を踏み台にしているのだから、それを取っ払わなくてはならないという考え方が出てきます。

これらのことを見据えて、「大観しなさい」だとか「止観」だとか、悟りの方便だと錯覚してはいけないと思うのが私の考えです。
それこそが、宗教の始まりだからです。
いえ、宗教がどうのではありません。
それが人の思想が絡む場合においてのみです。
すべては「屁理屈」──つまり人間の勝手な考えでああだこうだ言っているだけ──です。

蜂に刺された。
「痛い」というのは危険を知らせる大事な感覚です。
しかし、そのときにあなたは「心頭滅却すれば火もまた涼し」と念仏を唱え、表向き「痛くもかゆくもない」などとうそぶいても、何も解決しません。

「痛い」だけではありません。
「うれしい」
「楽しい」
「心地よい」
「悲しい」
泣き叫びたい
思いっきり笑いたい
許せない
怒った
不快だ

などなどの感覚・感情が去来して、あなたはそれをやり過ごします。
当然そこに大きな抵抗、ストレスが生じます。
それらは、思考以前で、もっと原初的なものでしょう。
それに蓋をすることは、多くの宗教がそうあるように禁欲という地獄に迷い込むことになります。
生命に蓋は出来ないからです。

これらは、ただ「当たり前のこと」ではないでしょうか? 当たり前とは、単なる(?=いや大いなる)事実であって、そこに言葉を挟む必要はありません。しかし、どういうわけか人はその「当たり前のこと」をえらく敬遠するのです。
つまり、「理屈づけ」が好きなのです。

たとえば「止まない雨はない」というのは、当たり前の節理です。
その当たり前のことは、よく「あなたが今直面している難事も、決していつまでも続くことはありません。だから、希望をもって前進しましょう」とかの”前向きな”方便として使われたりします。
モチベをキープするための言葉ですね。
「冬来たりなば春遠からじ」と同様です。
これは、自然を洞察して、そこから浮沈を繰り返す人生という航路に当てはめようとする「知恵」ですから、別に悪いことではありません。

「雨降って地固まる」ともよく言われますね。
これも、上の例と同じく、そこに人の「知恵」が介入しています。

しかし、良し悪しはさておいて、それらは人間の考えですね。
それを生きるための知恵と言うのであれば、その知恵が素晴らしいのではなく、ただただ降ったり止んだりを繰り返す雨そのものに叡智があるということではないでしょうか。
すべてはそれがもとになっているのですから。

雨は、降っているだけです。
ただそれだけのこと、当たり前のことには、このように途轍もない真理があるようです。

 

気づきへの気づき

私が気づいていることに気づいた瞬間、私は気づいていない。私が謙虚であることに気づいた瞬間、謙虚さはない。私が幸せであることに気づいた瞬間、幸せはない。だから、私が気づいていることに気づいているなら、それは、気づきではない。そこには、観察者と観察されるものとの間に、分割がある。さて、あなたは、質問をしている - すなわち、その中で、観察者と観察されるものとしての分割が、終わりになる気づきが、あるのか。明白だ。気づきは、それを意味している。気づきは、観察者がないことを、意味している。
──The Awakening of Intelligence=クリシュナムルティ引用より


付記《二元論に対する私の気づき》 

二元論 二つの異なった原理を立て、それによって(考察範囲の一切を)説明する態度・議論。──Oxford Languagesの定義 

だそうである。
二元論の誤謬、それに基づく混乱や闘争はここで言うまでもないが、二元性というものが相対立するものではなく、相補性であるという東洋哲学的な見方は二元論ではない。
これは長らくそう言ってきたことでもある。

むしろこう言おう。
二元論は二元論ではない。
二元論に気づかないことが二元論下の態度・議論であって、
そう気づいているものは、二元論を脱却している。


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