非二元と言うのであれば、それは二元である。
非二元を打ち出すのであれば、それは葛藤である。
非二元を持っているのであれば、何も持っていない。
もし何かこれからお話しする内容にピンとくるものがあれば、おそらくあなたにとって有益だというのではなく、私がやや肩の荷が下りるような気がします。
それは何かと言いますと、「態度」「姿勢」についてです。
偉そうに言えば「学問に向かう態度」とでも言うのでしょうか。
(別に堅苦しいことを書こうというのではないのでご心配なく)
一般にそれは物事を真摯に正確に受け止めて、そこに私情はもとより、嘘や偏見を持ち込まず、常に創意工夫を心掛けつつも、しかもクリティカルな目線も忘れずに・・と言った風な科学的で冷静なそれを言うのでしょう(「学問」が苦手な私の想像ですが、まあそんなところでしょう)。
それはやがて「論文」にまとめられ、運良ければ一つの「学説」としてアカデミーで認知されることになります。それはやがて、多くの研究家内外で「○○学説によれば・・」と引き合いに出されることでしょう。
ここではもちろんそうした「学問」に携わる先生方や、学究の徒に対して敬意を払いつつも、一方で全く別の、むしろ真逆のアプローチに光を当てたいのです。
これは、過去にnoteに何度か書いたことなので、もしかしたらご存じの方もおられるかもしれませんが、私は17歳のときに、ひょんなことから『老子(道徳経)』と出合い、そこにある驚天動地の世界観に、文字通り身が打ち震える思いをしたものです。
機を同じくしてマクロビオティックの桜沢如一を知るわけですが、奇しくも彼こそが実はその老子哲学の後継であることは、後に知ることになります。
しかし、どーいうわけか、友人に老子哲学の話をしても馬耳東風で、「ああ孔子とか孫子とかいったやつ?」くらいのものでした。
その後もあの時の偽らざる「驚天動地」の思いと、周囲の無関心とのあまりにも大きな落差にすっかりしょげ返った私は、爾来50年来この方、ほぼ誰ともその話を分かち合うことはなかったし、またしなかったものです(「もしかしたら俺がおかしいのか?」=ほぼ誰一人として面白がったり、食いついてくるものはいなかったのですから)。
このようにどーしても私事に言及せざるを得なくなるのですが、私がどーしたなどよりも問題は、そこにある「思想」です。
正確には「思想」ではなく、「宇宙節理」とでもいうのでしょうか、なんと言いますか説明できないものです(老子はそれを「道」と言いましたが)。
昨今、「非二元(ノンデュアリティ)」という言葉を一部で耳にするようになりましたが、字義どおりに解釈すれば、まさに『老子』全編はそれの解説のようなものです。
そのほか、東洋哲学の範疇に入るウパニシャッドや大乗仏典はじめ、それに触れたものは数多くあります。
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桜沢如一(1893~1966) |
しかし、言葉というものは象徴であって、そのものではないことに注意しなくてはなりません。ここでその「道」以上に大事になってくるのが、それとどう向き合うのか? という姿勢だからです。
それは、知識でも概念でも学問でも思想でも体系でも悟りでもありません。
それを持っていてもあなたは何の得にもなりません。
それはポジショニングを否定しますから、何かのことに際して、「非二元の立場からいえば・・」は何の意味もありません。
また、それは主張がないゆえに「出典」にはなりがたいものです。
さらにまた、その辺の講演会で耳にするように「あなたを真に自由で幸せにするための」という幼稚で思いあがった枕詞も決してつきません。
なぜならば、それは先に挙げたような意味での「学問」ではないからです。
つまり、知識を積み上げてゆくことで成り立つ「研究」「発明」「発見」「創造」という世界とは正反対のものだからです。つまり、比較、区別、分析の一切を否定します。
しかし、私たちは振り返って見なくてはなりません。
物心ついてから幼稚園─小中学校─高校─大学と、その教育課程はあからさまに知識を積み上げてゆくことでした。
私たちの「学問」とは、知識の集積を指します。
そのように刷り込まれてきた私たちに、いきなりそれとは真反対だと言われても、どこをどうしてよいのか分かりません。
「非二元」にせよ、概念的には分かったとしても、それをどう習得したらよいのか、その方法論がチンプンカンプンであって当然です。
よくてロマンティックな想像を思い描くくらいしかないでしょう、素地がないのですから。
「小人玉を抱いて罪あり」で、むしろその宝を持ったばかりに困惑するばかりでしょう。
それがこの「非二元」を前にした多くの方々の戸惑いであり、また間違いでしょう。
さきほど、私は「それとどう向き合うのか?」と書きましたが、それと向き合っている限り「非二元世界」はいつまでたってもあなたを離れたどこか幻想の世界でしかありません。
それは学問の研究課題のように、それと対峙するものではないからです。
つまり、そうある限りは依然二元論の世界です。
研究家、学者になってはいけません。
(いや、いけないというのではなく、それこそが通常辿る知識習得型の「学問」の型だからです。いくら古代からのそうした文献を渉猟・研究しても、非二元世界に近づくわけではありません)。
つまり、「非二元」がテーマや対象物で在ってはいけません。
持つことが、自己と対象物を分離します。
実は、この問題はつい最近まで私を悩ますものでした。
今にして思えば、17歳当時の私は、お定まりの鈴木大拙などを足掛かりに、それこそむさぼるように仏教や禅などの書物を読み耽ったものです。
その後の私の精神史は、まごうことなく、ドストライクにその”非二元”が全てだったのです。
しかも、上に書いたように、私個人はそれに近づくことができないというジレンマを抱えたまま・・。
なぜなら、お察しのように長らく私は非二元を根幹とした東洋哲学を「持っていた」からです。
それが下手をすると私のアイデンティティでもあったわけです。
あなたが非二元です。
宇宙は一つ、人類は一つという概念遊戯を超えて、それのみ、それだけでいいのです。
語ればそれは嘘になります。
(ここで、あらためて「言うものは知らず、知るものは言わず」の老子の卓越性を実感することになります)
ここが「学問(知識)」とこの世界の違いです。
しかも、その姿勢に気づかされたのは、昨年春にジッドゥ・クリシュナムルティの哲学に出合ったことによるものでした。
それまで、近いところまでは行っていたのですが、面の皮一枚、隔靴搔痒といった私のジレンマは、「自己と外界」を取り払った同氏の教えでようやく成就したと言いますか、往生したのです(笑)。
付録 聖なる反逆者【もう一人のクリシュナムルティ】
あなたは、U.G.クリシュナムルティ(以下UG)という人物をご存じでしょうか?
ジッドゥ・クリシュナムルティ(以下JK)に関心がおありであれば、その関連であるいは旧知の方もおられることでしょう。
わが国ではほぼ知られていない人物です。
私も、その名前が特徴的なことと、いくつかの特異なエピソードがあるくらいは知ってはいましたが、当然のことながらJKの影になって、それ以上のことは不明のままでした。
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ウッパルリ・ゴパーラ・クリシュナムルティ(1918年7月9日 - 2007年3月22日) =Wikipediaより |
ところが、この”もう一人のクリシュナムルティ”氏は、なかなかに痛快です。
彼は同じクリシュナムルティの名を持ったJKとほぼ同時代を生き、一時期、二人の間には奇妙な親交があったといいます。
年齢はJKよりも確か20以上も若いのですが、その思想は先生だろうが何だろうがいかなる権威も寄せ付けるものがなかった。
しまいには、次の言葉をJKに投げかけて二人は訣別したといいます。
そして、最後の方で私は「おいおい、君が私に投げかけている抽象的な言葉の裏には何かあるんだ?」と問い詰めました。すると彼は「君自身でそれを知る術はない」と言いました。それで終わり――つまり、それが私たちの関係の終わりだったのです――「私が知る術がないなら、君にも伝える術はない。一体私たちは何をしているんだ? 7年間も無駄にしてしまった。さようなら、もう二度と君に会いたくない」と言って、私は出て行きました。──Wikipediaより抜粋
ジッドゥ・クリシュナムルティは、多くの有名人、知識人に影響を与えてきました。
たとえば映画監督・ジョージルーカス、俳優テレンススタンプ、ブルースリー、作家・ヘンリーミラー、そのほかにも有名なポップスターも名を連ねます。
また文明評論家・オルダスハクスリーや、とりわけ理論物理学者のデビッドボームとは親密な交流があったことが知られています。
彼が主に欧米、故郷インドで精力的に講演活動をし、著書を顕し、その言説をビデオや録音に残し、世間的にはいわば成功を収めたのと引き換えに、対するUGは著名人とのかかわりを排し、著作も残さず、放浪し、最後はイタリアで侘しくその生を終えました。
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デビッドボーム(1917~1992) |
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オルダスハクスリー(1894~1963) |
しかし、JKには、その成功と名声の一方で、難解で(U.G.の言うように)抽象的で同じことを繰り返している・・といったような批判も多く見受けられるのも事実です。
私は、実はこの項を書き始めて、とあるサイトで初めて彼U.G.(ウッパルリ・ゴパーラ)・クリシュナムルティのあらましを知り、しかもその言行を知り、おこがましい限りですが、初めてJKと出会ったとき同様の既視感といいますか、近似性を感じて驚愕したものです。
(私の過去の文章をご覧になればお分かりでしょうか)
彼の生涯は先にnoteで取り上げたオスカーワイルドのように(世間的に見れば)不遇で、無頼的で行き当たりばったりのように見えます。
しかし、生身の人間はみな同じように弱いし、傷の一つや二つ持っているものではないでしょうか?
私が何度か取り上げる桜沢如一にせよ、JKにせよ、裏にはなかなかどうしてスキャンダラスで今日で言うところのゴシップを抱えて生涯を終えました。
しかし、私は全然意に介しません。
またご当人たちも「私や他人に師事するな」と生涯言い続けました。
また、彼らとて、人間臭い一面を抱えています。
桜沢は、お弟子さんの目の前でジョニ黒のボトルを瞬く間に開けてしまったり、帝国ホテルのレストランに一週間毎日通い詰めたりという奇行も多くしました。
さらに、これは”偉業”なのかも知れませんが、アフリカ・ランバレネのシュバイツァー病院を訪ね、同博士に「絶対に治らない」と言われた風土病に自ら罹患し、病院で行っている外科的手術を一切せずに、食事だけでこれを治すという離れ業を見せたりしました。
またJKは、ロンドンに講演に行くたびに名店フォートナム・アンド・メイソンの最上階を貸し切り、ゆっくりと食事をするのが楽しみだったとか。
さらにまた、彼はロンドンのテーラーメイドのスーツに身を包む”紳士”でもありました。
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ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986) |
生身の血の通った人間というものは、すべからくそんなもので、かえって身近な存在ともいえるものです。
また、絵に描いたように決して羽目をはずさず、何ら周囲との軋轢もないような人間というものがもしいたとしたら、それは生きているそれではありません。
さて、U.G.(ウッパルリ・ゴパーラ)・クリシュナムルティの、時に”本家?”ジッドゥ・クリシュナムルティを凌駕するようなその洞察力には脱帽する限りです。
彼がどのように常軌を逸した人物であったかよりも、大事なのは彼の思想の中身です。
それを少しここでご紹介します。
あなたの瞑想の一助にでもなれば幸いです。
U.G.クリシュナムルティの言葉
空間はどこにありますか? 四方の壁がない空間はありますか? 空間というものがあると何があなたに教えているのですか? この質問について他の人が言ったことを繰り返さないでください。思考がなければ空間はまったくありませんか? ありません。思考は空間だけでなく時間も作ります。思考がある瞬間、時間と空間があります。
思考は明日を作りました。あなたは明日の希望を作ってしまったので絶望を感じます。あなたの唯一のチャンスは今です。希望は必要ありません。自己やアートマの概念も有効ではありません。私はそれを見つけようと一生懸命努力しました。それは哲学者によって間違ってまとめられました。
思考は身体であり、思考は生命であり、思考はセックスです。あなたは思考です。思考はあなたです。思考がなければ、あなたはそこにいません。思考がなければ世界はありません。
あなたは救われなければならないという考えそのものから救われなければなりません。あなたは救世主から救われ、贖い主から贖われなければなりません。もしそうなるなら、今でなければなりません。私の言葉は、そこに存在する狂気を貫くことはできません。私の言葉に心を動かされず、無感覚にさせるのは、精神的な探求の狂気です。狂人と神秘主義者の境界線は非常に薄いものです。狂人は臨床例と見なされ、もう一方の神秘主義者は同様に病的です。
Q: あなたが説明している「知らない」状態は、別のレベルの意識と関係があります。普通の神経症の私とどう関係があるのでしょうか?U.G.: 意識のレベルとは? 意識のレベルはありません。覚醒状態と睡眠状態における意識の違いはありません。ここに座っているときでさえ、あなたは夢を見ています。イメージがなければ夢を見ることはできません。ベッドに横たわっているときは夢を見ていると呼び、目を開けて座っているときは別の何かと呼びますが、それだけです。私にとっては、私が「覚醒」状態であろうと「睡眠」状態であろうと、これらのイメージは存在しません。私はいつでもイメージを形成することはできません。目が開いているか閉じているかはここでは問題ではありません。その個別化された意識に存在する唯一のものは、そこに提示されたものの確実な反映です。あなたはそれに名前を付けません。それが何であるかを知りたいという動きや欲求は、単にそこにはありません。このいわゆる覚醒状態を知ったり経験したりする方法はありません。覚醒状態を機械的に説明することはできますが、これは、自分が覚醒していることを知っている誰かがそこにいるということを意味するものではありません。説明には何の意味もありません。だからこそ、私はあなたの自然な状態は「知らない」状態であると主張します。
Q: しかし、思考を過小評価しないでください。思考は多くの素晴らしいものを捉えることができます...U.G.: 思考は生命の動きを捉えることはできません。あまりにも遅いのです。それは稲妻と雷のようなものです。それらは同時に発生しますが、光よりも遅い音は後からあなたに届き、2つの別々の出来事があるという錯覚を生み出します。生命の流れとともに動くことができるのは、自然な生理的感覚と知覚だけです。その動きを捉えたり、封じ込めたりすることは問題ではありません。私たちは意識という言葉を、まるでそれに親しんでいるかのように、軽々しく使うのが好きです。実際、意識は私たちが決して知ることのないものです。
思考はまた、時間の反対である「今」、「永遠の今」を発明しました。現在はアイデアとしてのみ存在します。現在を見ようとした瞬間、それはすでに過去の枠組みの中に持ち込まれています。
思考は、自身の連続性に勢いを与えるために、あらゆるトリックを使用します。その基本的なテクニックは、同じことを何度も繰り返すことです。これにより、永続性の錯覚が生まれます。この永続性は、過去、現在、未来の連続の虚偽が明らかになった瞬間に打ち砕かれます。未来は、過去の修正された連続性に他なりません。
思考が生まれると同時に、思考の崩壊または死も起こります。それが、思考が根付くことが自然ではない理由です。人間の中に分裂的な意識を維持することによってのみ、思考は身体の調和のとれた機能を否定することができます。人間を宗教的または心理学的な言葉で表現することは、この素晴らしい身体の並外れた知性を否定することになります。思考の動きが常にあなたを自然な状態から引き離し、この分裂を生み出しています。
あなたが幸せを追い求めることは、あなたの不幸を長引かせています。
外面的であろうと内面的であろうと、自由への要求は長い間私たちの中にありました。私たちは、この要求は神聖で崇高なものだと教えられてきました。私たちはまたもや誤解されているのでしょうか?
自由への要求があなたの問題の原因です。あなたは自分自身を自由だと見なしたいのです。 「あなたは自由ではない」と言っているのは、追求すべき「自由」の状態があると言っているのと同じことです。しかし、その追求は奴隷状態であり、自由の否定そのものです。私は自由について何も知りません。なぜなら、自由であるか、奴隷であるか、あるいはその他の状態であるかを問わず、自分自身について何も知らないからです。自由と自己認識は結びついています。私は自分自身を知らず、自分の文化によって与えられた知識以外に自分自身を見る方法もないので、自由になりたいという疑問はまったく生じません。あなたが自由について持っている知識は、自由の可能性そのものを否定します。あなたが持っている知識で自分自身を見るのをやめると、その自己から自由になりたいという要求は消え去ります。
心の静けさはばかげています。心の静けさなどというものはありません。これは、自由になりたいという要求によって生み出されたもう 1 つのトリックです。そこにあるのは、自由になりたいという絶え間ない要求です。他には何もありません。どうすれば、そしてなぜ、記憶から自由になれるのでしょうか。記憶は絶対に不可欠です。問題は記憶を持っていることではなく、記憶を「スピリチュアル」な関心を高めるために、または幸福を見つける手段として使う傾向です。記憶から自由であろうとすることは引きこもりであり、引きこもりは死です。
知るものは何もありません。知るものは何もないという発言は、あなたにとっては抽象概念です。なぜなら、あなたは知っているからです。あなたにとって、知らないことは神話です。そこにあるのは、知らないことではなく、知っていることから自由になる状態を投影する知っていることです。知っていることから自由になりたいというあなたの要求が、問題を生み出しているのです。「私はこうあるべきだ」という考えがある限り、私が実際に何であるかはそこにあります。
そうです。そして最も偉大な理想、最も堂々とした、完璧で力強い理想は、もちろん神です。それは怯えた心の発明です。人間の心は多くの破壊的な発明をしてきました。最も破壊的で、あなたを堕落させたのは神の発明です。人間の思考の歴史は聖者、教師、導師、バガヴァンを生み出してきましたが、神はその中で最も堕落しています。人間はすでに人生をめちゃくちゃにしており、宗教がそれをさらに悪化させています。人間の人生を本当にめちゃくちゃにしたのは宗教です。
Q: あなたのメッセージと他の教え、特に J. クリシュナムルティの教えとの間に私が気づいた類似点は、思考構造とそれが私たちを盲目にする能力に重点が置かれていることです。思考はなぜそれほど重要なのでしょうか?U.G.: 思考はあなたのすべての行動をコントロールし決定しますが、同時に、思考自体を意識で見ることはできないということが重要です。思考について考えたり理論化したりすることはできますが、思考自体を認識したり評価したりすることはできません。あなたと思考は別々のものですか? あなたは思考について知っていますが、思考自体を知っているわけではありません。思考は、思考についての知識とは別に存在しますか? あなたが言えることといえば、「私は知っています。自分の思考、自分の経験、これやあれについての知識を持っています」ということだけです。それとは別に、思考はありますか? 思考についてのあなたの知識だけが、存在する唯一のものです。
同様に、悟りはそれについてのあなたの知識から離れて、それ自体の独立した存在ではありません。悟りはまったくありません。啓蒙という考えは変化と結びついていますが、変わるべきものは何もありません。変化は時間を認めます。変化には必ず時間がかかります。変化、つまりあるものをなくして別のものに置き換えるには時間がかかります。今の自分と、あるべき姿は時間によって結びついています。あなたは明日悟りを開くでしょう...
これを例に挙げてみましょう。あなたは悟りを開きたい、あなたは「無私」になりたい、あなたはこうであり、あなたはあれになりたい。この2つの間のギャップは時間で埋められ、「どうやって?」という繰り返しの質問をするためにそこに置かれたものです。あなたの悟りや無私は常に今ではなく明日です。したがって、時間は不可欠であり、時間は思考です。考えることは行動ではなく、取ることでもなく、単に望むことです。あなたは何かをする準備ができていません。瞑想しているだけで、それはただそれについて考えているだけです。あなたの思考構造、つまりあなたは、時間以外に何かが起こる可能性を想像することはできません。この現実逃避の論理は、誰もが精神的な事柄にも適用しますが、時間枠がもっと大きいだけです。それは来世か、おそらく天国で起こります。いずれにせよ、明日です。そして、これらの問題に明日がないのと同じように、その基準点である現在は存在しません。どこに存在しないのでしょうか? 過去である思考の中にです。悟りと無私の「今」の問題はありません。なぜなら、「今」は存在せず、現在を過去に投影しているだけだからです。
さて、ちょっとアタマがアレになってきましたね。
この辺にしておきましょう。
大変に失礼な喩えですが、「酔狂の真実」という言葉があります。
一歩先に行ってしまったのか、はたまた大きく後退してしまったのか・・。
いずれにせよ、どの言葉も、鋭く刺さって抜けないのがU.G.クリシュナムルティ氏の特徴です。
彼には一点の妥協もなく、何らの主張もなく、無垢で純真です。
子供が周囲へのおもねりもなく、自分を守ろうとする防備もなく、はっきりとそのものずばりを言うのに似ています。
彼の発言こそを「神聖」ととるか、はたまた「狂気」ととるかは読者次第なのだろうし、また彼にとってはそれはどちらも等しく無意味な区分というかもしれません。
まだまだ、彼の言葉はありますので、ご関心があるようでしたら近いうちに続編を掲載いたします。
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晩年のU.G.クリシュナムルティ |
以上、
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