で、それをどうする?

2025年5月9日

問題

t f B! P L
 
満たされたい
満足したい
自分のものにしたい
取り入れたい
惑溺したい
溺れたい
知りたい
探究したい
究明したい
耽りたい
癒されたい
食べたい
食いつくしたい
酔いたい
酩酊したい
楽しみたい
行きたい
逃げ出したい
見たい
遊びたい
なりたい
有名になりたい
偉くなりたい
辞めたい
話したい
暴露したい
打ち明けたい
相談したい
認められたい
成功したい
賞賛されたい
抱きしめたい
抱きしめられたい
戯れたい
捨てたい
仲間になりたい
面倒を見たい
愛されたい
慕われたい
・・・


願望に際限はない。
欲望に限界はない。

不思議ではないか?

まず第一に、

なぜ、それほどまでに「・・したい」のか?
(他人から見ればしなくてもいいようなものまで「したい」のか?(笑))

性的なものであれ
肉欲的なものであれ
感覚的なものであれ
情緒的なものであれ
社会的なものであれ
心理的な、あるいは精神的な、プライベートなコンプレックスからのものであれ、
私たちは、したい。
どうしてもしたい。
欲望を成就、達成したい。
理屈抜きにである。

では、それは単に「したい」というだけなのだろうか?
あるいは、した結果を睨んだうえでの算段なのだろうか?

不思議の二番目は、
それらの結実に至るまでの情動的な動き自体に私たちは途轍もない魅力を感じるのであって、それとは裏腹に、いざそれの達成となると、実は「空虚さ」以外の何ものも残らない。
もっと言えば、私たちは「空虚さ」に向けて欲望を感じているのではないか、という疑問である。あるいは、「空虚さ」を恐れて、それから逃げるために、欲望というパッションだかエモーションを持ち出しているのではないのか、という推察である。

SEXのエクスタシーやオーガズムの先にある空漠さ。
旅行に出かける前に宿や旅程を組んだりする際の(空想の)ワクワク感と、実際の体験~帰宅後のある種けだるさ。
知りたいとの積年の思いが叶った際のある種の落胆。
成功者が、むしろ現在よりもその成功に至るまでの苦節の過程を自叙伝に書いたり、周囲に楽しげに話すその矛盾。
飽食ゆえの満腹よりも、ひもじさから粗末な茶漬けを啜るときの、えもいわれぬ幸福感。

私たちは空漠さ、空虚さという火に誘われる蛾のようなものなのか?

「必要は発明の母」
確かに、私たちの文明は必要があって生まれてきた。
しかし、その必要は欲望から生まれてはこなかったか?
つまり、
「欲望は必要の母」
と言えなくもないではないか?
無論、その欲望は「自我」がないところに生起しない。
となれば、さらにさかのぼって、
「自我は欲望の母」である。

そして、その欲望を増大させる要因には「比較」がある。

このようにして私たちは一様に条件づけられて、おそらく数千年来「人生」をやってきた。
生まれ落ちるときから、何かをより多く得ること、多く学ぶこと、多く成功すること、多く誉れを得ること、多く儲けること・・つまり欲望という礎石の上に、如何にして他者よりもそびえたつ高楼を築けるか、をやってきた。
それは、悪びれることなく、ごく当たり前の人生のレールとなった。

それで、人類が一様に幸福であるならば、何も物申すにあたわない。
しかし、ひとり残らずこの不安、不信、恐れ、疑惑・・つまり不幸のどん底に沈んでいるのはどうしたわけか?



自我というと、何かしらそういう名称の不肖の息子が自らの中にいるかのようにとられがちですが、私はそれはものの見方の重大な欠陥を指す言葉のように思えます。

私という存在を観るときに、どうしてそれが「私」(私物)なのでしょうか?
個というものは全体が無ければ存在できませんね。
「個」と言った瞬間にそれは「全体」を含意しています(逆も同様)。

個はなるほど個でしょう。
しかし個あっての全体だし、全体あっての個ですね。

同時に自己があってはじめて他人、ひいては人類、世界だし、
人類あって、他人、隣人あっての自己です。

自己のみと言うのは成り立ちません(ゆえに自我は幻想です)。

「我が我が」
「おらがおらが」
という主張が、果たして全体の拮抗を崩し、そこに軋轢や反動が来ないわけがありません。
それこそが物理的にも節理的にも当然の理です(個と全体は一つだからです)。
そのような自我の動きは、宇宙の時空間をゆがめたりたわませたりするばかりで、その結末は悲惨なものでしょう。

しかし、私たちの人生はそうした自我の欲望に後押しされた動き以外の何ものでもなかったのではないでしょうか?

私たちは、いまだにこんな幼稚なことをやっているのです。

で、それをどうする?

今から新たに何かを打ち出すのではありません。
狂っていたもの、軌道を逸れてしまっていたものに気づき、欲望のさらに先に在るもの──ちまちました個人のものではなく、人類全体を覆いつくすに足る物──へと私たちは向かうべきだし、また向かっています。

自我は爆発しました。
そこで欲望は何でしょう。





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