倫敦幻想

2025年7月11日

幻想

t f B! P L

 


《ようこそ、幻想都市倫敦(London)へ。夜のとばりが降りるころ、立ち込める霧に乗じて顕れるここはイデアの都市、観念都市。陽の光がもたらした俗物主義や犬儒主義の紳士らがそれぞれ帰路についたあとに、それを待っていたかのように重厚な都市が開ける。超俗的なダンヂイズムを解されるものであれば、殿方であろうがご婦人であろうが構わない。バカラのカットグラスには、リキュールやコニャックらのアルコールの代わりに、薄荷色の透明なエーテルが入っている。それを一杯飲み干したら、さあ出かけよう、孤独な散歩へ。》


おや、あらためてこの都市を眺めると、なんと硬質で数学的な佇まいなことか。
こんな都市に居住するものたちは、タルホよろしく「遠方では時計が遅れる」ことや、「ユークリッド幾何学」について深く探究したりしているに違いない。
あの、破廉恥な田舎者じみた俗物根性丸出しの「政治」の臭いがないところを見ると、ここにはそんな暑苦しいものは存在しないらしい。


昼間の住民についてこっそりと話そうではないか。
その前に、今日お会いしたお二人の紳士だが、これまた興味深い。
お二人はそもそもこの倫敦の夜の世界・・つまりイデアの世界の住民だった。
左のホルムズ君は、丸ごとイデアの人。
昼夜を分かたず探偵業に没頭、俗事はほったらかすような人物。
まあ、右のワトスン君が温厚な性質なんで、うまく均衡を得られたんだがね。
それで、昼間の現実世界にまで登場している。




永劫回帰の街角

なぜ、いつも同じなのか?決まって同じ方向を向き、同じように歩を進める。同じ衣装で、同じことを話し始める。オルゴールか蓄音機か・・。時刻になると、小さな人形の舞姫が、そこに輪を描くように踊りだす。そうしてまた、それは時刻になるとお行儀よく退散してしまう。


いや、なに、こちらの世界から見たあっち(現実世界)の印象さ。
あっち(現実世界)の人間たちは、おとなしくそこにいればいいものを、たちどころにこちらの世界に入ってくる。
彼らは、動けば即物議を醸すということをまだ学んでいない。
おかげでこちらは年中ボヤが立ちのぼり、火消しで大わらわさ。




卵が先か鶏が先か──そんな初歩的な命題から始めなくてはならないとは・・。
なぜに君たちはそう先ばかり決めつけたがるんだろうか。
(男と女で言えば、創世記では男が先と規定してしまった。だから西欧世界ではその後も父権社会のいびつさを引きずることになったではないか?)
卵も鶏も同じさ。
卵は鶏の母であり子である。
鶏も同様卵の母であり子である。

このように、一方が無ければ他方も存在しない、という関係性は何を意味するのか?
実はそこに対立する何ものもないということを物語っているのさ。
男と女が相互に自らを成り立たせているのもそれさ。
どちらかのみを主張すれば、どちらも死ぬ。

ところで、両者は違うものと考えるところから分裂(二元性)が始まる。
たとえ、君が「善」や「正義」を重んじようが、それで相手を排斥しようとする行為は自滅であり、茶番だ。

ここ倫敦のイデアの世界とて同様。
現実世界と切り離せない。

ここがあって現実があるのでも、現実があってここがあるのでもない。


おや、少し郊外に出てきたようだ。
なるほど世界は隅の方で辻褄を合わせようとしているのか。

天蓋にはシャンパンでほろ酔いの三日月じゃないか。クリスマス飾りのように吊り下げられたような夜空と、幾何学的な出来事。
おやおや土星までお休みとは・・。




さあ、いつの間にか爽やかな朝が来たようだ。

お別れの時だ。

朝は、現実世界の入口さ。














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