| ”夢先案内人(ストーカー)”の家系には代々障害のある子が生まれるが、その子は同時に超能力を身につけている。 写真の女の子はガラスのコップをサイコキネシスで動かしている。 ──A scene from the movie ”Stalker | Directed by Andrey Tarkovsky” |
はっきりせず、
話す内容、
書く内容、
学校や会社などに提出するさまざまな書類
・・・それらがどーも判然としない内容であったとき、どうするか?
困りもんですね。
「はて、どーしたもんか」
「いったい、この主は何を言いたいんだろう?」
自らの考えていること、思いを相手に伝える
ケッコーこれが骨の折れることでして、
そんな意味でこのブログなどもそうですが、
変に誤解、曲解、下手すりゃ真反対のメッセージすら伝えてしまっている
ことまであったりもすることから、
げに恐ろしきは言葉なり、って相なるわけです。
だからこそ、世間様は、とりわけ教育では、そうした意思の伝達、コミュニケーションにおいて、
はっきりせず、曖昧な、また誤解を招く表現は避けて、明快に、筋の通った、旗幟鮮明な表現をするべきだ、
と教わってきたような気がするんです。
一見、もっともそうなご意見だし、どなたもそう思うことなんだろうが、
果たしてそーなんだろうか?
それはもしかしたら危険なことではないだろうか?
今回はそれについて少し考察をしてみたい。
というのも、最近、私はあまりにも綺麗で、出来過ぎた、論理的すぎる論説や、何の破綻もない論理というものに大いに”?”(欺瞞)を感じるからだ。
(と言う以前に、それらの論説が長続きしたのを見たことがない😏)
否定も肯定もせず、
そもそも、一個の人物の思っていること、考えていることを、一言で約(つづ)めて「〇〇である」などと言えるだろうか?
これは、政治の世界などを例に挙げるとわかりやすい。
高市さんにせよ、片山さつき女史にせよ、玉木雄一郎氏にせよ、小泉進次郎氏にせよ、果ては習近平にせよ、トランプ氏にせよ、私たちある一定のイメージ、枕詞を刷り込みさせられている。
曰く「〇〇の□□さん」と言った風に。
これは、世論というよりも、それを煽ってきたマスコミ・ジャーナリズムによって冠された形容詞なんだろうが、例えば「右」「左」「タカ」「ハト」「親〇〇」「反〇〇」と言ったように、単純にカテゴライズしがちだ。
政治の勢力図など、そんな無理くり(だか、意図的にだか、)セクショナリズムに当て嵌められた者の寄せ集めに見えてしまう。
かように、
論理的で、筋道が通っていて、明快な思想の持主というもんは、
権力者にとって実に扱いやすい駒である
と言えなくもないではないか?
少なくとも、そうした側面もあることは否定できない。
そんな意味で、昔の総理大臣の腹芸というかなんというか、「ウーハー」とか結局何を言ってるのか不明な答弁というものには、含蓄がある気もする。
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| 第68代内閣総理大臣・福田赳夫氏(1951)=Wikipedia |
私はここで、何もあえてトンチンカンなことを唱えたり、難解・晦渋な論理に逃げたりすべきだ、と言っているのではない。
普通に考えて、一個の人間というものは、一貫した論理性があって、一切ブレず、生涯にわたって自らの主張を押し通す、というような御仁はそうはいないのではないか?
なぜ、みなこぞって絵にかいたような、そうした模範生、まともな人品になろうとするのか?
そうであることが正しく、まともであるように教わってきたからではないか?
そのような人物は、「信念に燃えた人」として尊敬されるケースが多い。
私に言わせれば、もしそうした輩がいたとすれば、それはむしろ偏執狂的であって、あまりお近づきになりたいとは思えない人である。
そうであるようなまたないような強さ
私は思う。
人の判断力ほどあてにならないものはない。
結局のところ、単にそれは個人が「そうだ」と決めているだけではないだろうか?
本当にそうなのか否かはここでは問題ではない。
どう決めるのかが問題なのだ。
「ところ変われば品変わる」ではないが、例えばマレーシアで麻薬売買をすれば即死刑だし、フィリピンなどでも薬物については超法規的な厳格な扱いがあったりする。
イスラム国では強姦等の被害にあった女性が、200回の鞭打ち刑にあったり、酷いときは過去には死刑もあったほど。
もちろん、犯罪の是非を云々しているのではなく、その処遇である。
「え、まさか」ではあるが、理不尽と思うのはそうした宗教理念や価値観が違うからであって、もちろん私たちがかの国にあって、それを非難したりはできないわけだ。
つまり、
あなたは法規上とか道徳上とかの取り決めや一般常識の枠があって、その中ではじめて物事の真偽や善悪といった判断をしてはいないですか?
ということである。
つまり、ぶっちゃけ、他人様の作った法の下で
あなたは、やれそれは正しい、それは間違いだ、ちーーとまずいんでね―の?
と言ったりしてませんか?
たとえ、それが個人的には内心不本意なものであったとしても・・。
小は家庭や学校、会社から、大は国家単位で・・。
言うまでもないが、それが「憲法」レベルであった日には堪ったものではない。
まさに、さながらソクラテスの言ったように「悪法もまた法也」と、歯噛みする日々だろう。
判断力、
とりわけ、善とか正しさといった判断の基準は、
オリジンでピュア
なものではないのか?
しかも、それは、
不変
であって、よそに行った途端に悪や邪に変容してしまったりしないはずではないか?
それとも、そんな考えはきれいごとであって、
もとより、さまざまな思想や信条などが
ミクスチャー
されたものだったのか?
といった、まったくもってウヰスキーの「シングルモルトかブレンデッドか?」
みたいな問題にぶつかるわけだ。
本来は、そうした万人の心を一にしなければ問題が解決しないばかりか、ことはよじれていくわけだが、時折Aさんサイドのプラカードは○を出しているが、Bさんは△、Cさんは✕と、同じ事件に対するジャッジが大きく揺れることもある。
今年の異常なクマ出没騒動と、それに対する対処などの反応は分かりやすい。
集落や都市部にも現れるようになった親子連れのクマを駆除した、などといったニュースも複数件あったが、とりわけ「なぜ子熊を殺した」という苦情が、地元自治体に殺到したという。
この件についてはあなたはどう考えるだろうか?
私はあえて言いたいが、火に油を注ぐように、感情論に対して感情論で返すことは危険だということ。自らの主張が正しいと思うのなら、淡々とそれを述べるだけでいい。
さらに付言すれば、
正論で武装することは暴力になる。
ということ。
正論であればいいというのも危険だ。
戦争のトリガーはみなそうだったことを思い出したい。
国民に「正論」「正義」を焚きつけることが、作られた仮想敵の”破廉恥さ”を叩き壊す原動力になったわけだ。
つまり、元来火のないところに煙を立てたわけ。
コトが人ならぬ熊騒動だからまだしもだろうか?
少なくとも寄せられたコメントを散見しただけでも、そのやり取りは「本州Vs.北海道」的な騒動に発展しかねない印象を受けた。
自らが正論であったとして、それで相手を論駁したり罵倒したりはまずい。
お互いに生活環境が違う中、偏見や誤解もあるだろう。
これが移民騒ぎ同様に、その火種がボヤ騒動で済まなくなってきたときこそ、真の敵の思う壺であることを心に留めておきたい。
日本人は何かとはっきりせず、何を考えているか分からない。
とは、よく外人から指摘される国民性? である。
しかも、困ったときに薄ら笑いさえ浮かべたりする。
日本人は相対的な物事に拘泥しない気風があるからだ。
なぜなら、Aは必ずA’に変わる理を知っているから。
つまり、Aと言い切った途端にそれは嘘になる。
困難はいつの日か容易さに変わる。
だから、日本人は決して屈しない強さを持っている。



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