【秘すれば花の世界】美少年と狂気

2025年11月29日

幻想 雑感

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狂王」とも呼ばれたルートヴィヒ2世(1845-86年)
=ルキノ・ヴィスコンティは彼をモチーフに、作
品『ルートヴィヒ──神々の黄昏』を仕上げた

・・・がしかし

最近、なぜかイタリアの映画監督ルキノ・ヴィスコンティの話題をちらほらと仄聞するので、なんぞ? と思いきや氏の映画『ベニスに死す』で、物語の中核になる美少年役を演じたビョルン・アンドレセン(=写真下)が亡くなったらしい。

「世界一の美少年」「ルーヴルに飾るべき」とまでに評されたビョルン・アンドレセン演じる少年タッジオ=ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』(1971)より

といっても、映画が公開されてから50余年経つことの 本年2025年10月25日、アンドレセン70歳での死去の知らせだった。
すっかり、その映画も彼の存在すらもアタマから離れていた私ではあるが、亡くなる前の彼の近影を見て、複雑な心境になったものだ。

晩年のビョルン・アンドレセン(2021年)

「別にそうではないのだがしかし、

と言ったところが正直な感想だろう。
写真は出演映画用に作り込んだ風貌だから、そうした長髪やらは抜きにすれば、彼と街ですれ違ってはむしろ端正な老紳士といった感じだろう。
がしかし、少年時代の面影である凛とした佇まいこそ健在ではあるが、その美はすっかり後退してしまっている。

とはいうものの、当然ながらというよりも、矛盾するようではあるが、老いて後に若いころの美があっては、それはさながら不死という地獄の責め苦を負った人魚のように、その人物に不幸をもたらすような気もしてぞっとしない。
いや、それ以前に、そんな美自体成り立たないだろう。
というのも、そもそもその美の性格上、若くして散ってゆかなければならない定めがありそうだからだ。

(こんなお話を始めたら、それこそ三島由紀夫や稲垣足穂、江戸川乱歩らが三日三晩語りつくしてもなお終わらないことだろう。)

映画はご存じトーマス・マン原作の小説に材を摂っている。
映画では「タッジオ」という名で登場する美少年は、原作者のマン自身の実体験を投影している。
実際にマンは、さるポーランド人の若者に恋をしたのだという。
そしてまた、全編、老音楽家アッシェンバッハ(グスタフ・マーラーがモデルとも)役のダーク・ボガートの好演が光るのだが、別けても後半の真っ白に死化粧した顔に、黒く染めた髪からそれがツーっと流れる様がしびれますね。

役を通り越してあまりにアシェンバッハなダーク・ボガート

なるほどアシェンバッハなグスタフ・マーラー
Wikipedia

私は、学生時代にヴィスコンティ好きの友人とこの映画始め『地獄に堕ちた勇者ども』
『イノセント』『家族の肖像』(これは確か岩波ホールで観たなぁ)そして『ルードヴィヒ──神々の黄昏』などを次から次へと観て廻った時期があり、懐かしくも苦々しい感慨が蘇ってくる。
というのも、後日、その友人自体にそうした性癖があることが発覚したからだ。

ルキノ・ヴィスコンティ自身、貴族の家柄(にありがちな、と言うか、それをいいことに)自身の作品に登場する俳優とはその種のホモセクシュアリティの関係を持つことが条件になっていたようだ。
言い方を変えれば、ある意味、彼こそが真にデカダンスの何たるかを体現していた人物だったのだろう。

もはや同性愛については、今でこそ擁護というよりも、普通に社会に浸透している感があるが、半世紀も昔は「秘すれば花」というべきか、表立って日常会話では慎まれる事柄だった気もする。

美の化身は死、犯罪の臭いがする


さて、ここで一つの共通項を探してもらいたい。
彼ら”美の化身(ミューズ)たち”のだ。

唐突だが、幕末の志士の中でも、土方歳三などは俄然今風のイイ男、イケメン俳優にも劣らない風貌の持主だと個人的には思ったりもするが、どなたかが彼の容姿(人相)を評して言った台詞が頭から離れない。

「あの目は、多くの人の最期を看取ったものの目だよ」

さながら、名刀だか妖刀を評して、たくさんの血を吸った刀だ、と言ってるかのよう。
「死神」ではないが、なんというか死に対してすっかり抵抗がない。

「鬼の副長」の異名で恐れられた新撰組副長・土方歳三

組長の近藤勇が戦死し、剛腕の沖田総司を結核で失くした後の新撰組を、土方が孤軍奮闘で切り盛りしたことは事実として、彼がどのような立ち位置にいたのかを私は知らない。
あるいは「出来る男=非情な男」と言った側面もあったかもしれない。

相互にバイセクシャルであったことから、ビスコンティの文字通りの寵児であったヘルムート・バーガーは、ビスコンティを師とも父とも慕っていたという。
そしてまた監督の死後は、自らを「ビスコンティの未亡人」と公言してはばからなかったともいう。
映画界自体のパワーの衰退もあって、自らの活路を見失った彼は、自殺未遂を試みるなど、多くの似たものが辿ったように晩年は不遇だった。

映画『地獄に堕ちた勇者ども』のヘルムート・バーガー
本家マレーネ・ディートリッヒも絶賛したという


とまれ、ここはやや強引過ぎる、独断に過ぎると言われようが、あえてまとめてしまいたいのだが、

美少年は薄幸であるか、さもなくば薄っぺらであるか、死の影を宿していなければならない。

なぜなら、それはそもそもこの世に存在しない、もしくは存在を許されないものであるからだ。

この辺の事情をうまく表現されているのが、末尾に挙げた記事である。


 当時25歳。
輝くばかりの美貌と、引き締まった肉体。
日差しを浴びた健康的な小麦色の肌。
見る者すべてを虜にしてしまう美しさと若さの絶頂にあって、
青い瞳の奥は暗く、隠しきれない育ちの悪さを感じさせる。
そこがたまらなく魅力的だった。
どちらかというと単なる美形より個性強めな人が好きなのだけど、
アラン・ドロンに関してはその逆の価値観からの憧れだった。
渋さも円熟味もいらない。
ひたすら美しく浅はかで、傲慢な若い男であって欲しかった。
でも、アラン・ドロンの本領発揮はむしろここからで。
船上での無邪気な姿より、街に帰って怪しげな男たちと交流し、
汚いお金で稼いでいることを匂わせる高級そうなスーツ姿が最高に似合う。
「最高に似合う」とは、「本当は粗野な革ジャンやジーパンがふさわしいのに、分不相応な高級スーツを着ている感じが最高に似合う」という意味。
私にとってアラン・ドロンは、そういう存在。


私はあまり、というかほとんど他人様の文章を読まなくなって久しいのだが、上記理由で「何かないかなぁ」と、たまたま探り当てたのがこの投稿。

書き手は続ける。


『地下室のメロディ』ならジャン・ギャバン、『山猫』ならバート・ランカスター、『レッド・サン』ならチャールズ・ブロンソン、『ボルサリーノ』ならジャン=ポール・ベルモンドの方が魅力的。
人間的な色気に溢れる彼らに比べて、どこか軽く、未熟さや器の小ささのようなものを感じさせるアラン・ドロン。
逆説的だけど、そこにこそ彼の魅力があると思う(もちろんあの圧倒的な美貌なくしては成り立たないものなのだけど)。


言い得て妙だと思う。

ひとりアランドロンに限らず、先のビョルン・アンドレセンや、ヘルムート・バーガーにせよ、古くは『ドリアングレイの肖像』のオスカーワイルドにせよ、むしろ空気のように悪を吸いつつも、天衣無縫の無邪気さでもって隣人を悩ませる。
もし本人にそれが不可能であったときには、その役どころや作品中の人物にそうあらしめる。

美女には神々の祝福があるが、
美少年にはそれがない。

”狂王”ルートヴィヒ2世を演じるヘルムート・バーガー(右)=国王の実際の
肖像画(初出)と、とりわけその狂気を含んだ瞳が重なって酷似している


美男の代名詞アランドロン=映画『山猫』より


参考


ルキノ・ヴィスコンティ(1906~1976)



👇ルキノ・ヴィスコンティに対して、また映画界(芸能界)に対して、昨今のジャニーズ事務所騒動的な”辛口”な評論をまとめている点で読みごたえがある。

👇ルキノ・ヴィスコンティが製作したドキュメンタリー。謂わばメイキングオブ『ベニスに死す』では、執拗にタッジオ役の美少年を追い求める様が描かれている。これを観ても、いかにアンドレセンが群を抜いているかが分かる。しかし、彼は年齢、身長など映画での配役の条件をオーバーしていたため、ビスコンティから虐め・嫌がらせを受け続けたという。

👇この方の自らの目線、そしてこの種の美に対する認識は秀逸だと思う


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