あるがままでいいのだとか、あるがままであることは難しいとか、この「あるがまま」という言葉はわりあい広く解釈されている。


何を隠そう(あれを隠そう)、本ブログのサブタイトルも、

「あるがまま」について日々の想いを綴ってまーす😉

みたいなことになっています。

さあ、この「あるがまま」ですが、額面通り解釈するとなれば、「素のまま」「(なるべく)手つかずのまま」「作為を離れた」「本来の持ち味を損ねない」「生のまま」「余計な装飾はしない」などなど、まあそんなところでしょうか。

それらを総合すると、物事はあるがままが一番である、というご意見がケッコー多いのではないか? と推測してしまう。

自然が一番
自然の前では所詮人為なんてちっぽけだ
自然随順
自然にゃぁ勝てぬ

ということで、化粧っ気のない、スッピンの素顔を礼賛するような、なんとなくそうしたオーガニックな、プリミティブな、その昔のヒッピームーブメントな世界観がチラつく。


しかし、こう述べたのは、あくまでもイメージです。
イメージが大切な世界は、化粧品会社などのマーケットであって、
あるいは、婚活、就活における第一印象であって、
もしくは企業のブランディングにおける様々な味付けです。



自分自身の何たるかを明らかにするのに、イメージ付けはいらない、というより邪魔になりますね。
「あるがまま」が、何かしら都合の良いイメージのためにあるのであれば、それは大きな作為以外の何物でもないでしょう。

ありのままの自分
あるがままの自分

それを今すぐにここに提示しなさいと言われてあなたは出来ますか?

「えっと、わたしのあるがままってどーいうんだっけ?」

と、正直こう来ますよね。

人間は考えます。
ところが、もし考えることが、「あるがまま」から遠ざかる原因になっているとしたらどうでしょう?
仮に「あるがまま」が正解、人類の行きつく先の姿だとしたら、考える行為は不要であるばかりか、有害な一つの抵抗でしかありません。



しかし、ここに一見何でもないように見えて、ある疑惑を拭えない素材がいくつかあります。
それは、「倫理」とか「道徳」、「信心」、「信仰」、「教育」など、外部によって後天的に私たちに植え付けられた知恵です。

良くも悪くも、それらは「身に付けるべき」だし、また「身に付けなければならない」とされてきたもので、おそらくは私たちは率先してそれを取り入れてきたのではないでしょうか?

そうして出来上がったのが、物分かりのいい、度量のある、分別も、知恵もあるような”大人”というわけです。

無学で野蛮な動物に近い下等な人間(←イメージです)が、すっかりノーブルで平和を愛するような紳士淑女に生まれ変わった(←イメージです)はずです。

しかし、人類はそれで幸せになりましたか?
戦争はなくなりましたか?
いや、まさかちょっとした隣人とのいざこざくらいはなくなったでしょう・・と意地悪したくもなりますね。



人間は考える葦である・・ではないですが、少なくとも「考える」という尊い行為によって、人間は発展、進化するのだという根強い神話はいまだに健在です。

考えない連中は下層階級で、苦労するものだ。
だから僕たちは学問を積んで、教養を身に着け、日々陰徳を積み、神のご加護を得て、立派な人になるんだ・・

ケッコーなことですが、ちょっと待ってください。
それって、「あるがまま」からずいぶんと遠くに来てしまってますね。

「ふふぁ~」

以前にご紹介したことがあるUG.クリシュナムルティの哲学こそが、その辺を救い出してくれるのでは・・。

ふと、私はそんな風に思ったりするのです。

いかがですか?
これから(未来)の哲学は、そういった意味でズバリあるがままのものになると思います。
あなたの知っているあの哲学、その宗教、またはそれらの亜流が明日の世界を救うことはないでしょう。

それは未知の何かであり、むしろ宗教といった体をなさないに違いありません。
また、私が以前から指摘してきたように、それは学問のように積み上げるもの(知識)ではなく、むしろ持っているもの(余計な知識、知恵)を捨て去ることであろうかと思うのです。


その辺に関しては、noteの最新記事にまとめたいと存じます。

例によって長文で、骨が折れますが是非併せてお読みください。







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