真理はない──急ごう!

2026年1月26日

教育 桜沢如一 真理

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ワトソン君、結論を急ごう!

変わることだけが変わらない

桜沢如一は生前、こんなことを言っていた。
(そして私も、そんなことばかり言っている😆)

「この世に変化しないものは何一つない、一切が無常であることこそが唯一変わることがない真理だ」

無常の恒常性。

無常のみに恒常がある。

恒常(変わらないこと)の内訳は無常(変わること)である。

🤔

などなどさまざまに言い換えられるが、それは詰まるところ、こうも置き換えられるだろう。

「この世に真理などはない。それこそが唯一の真理である」

この世には変わらないものは一つとしてない。
すべては変わる。
実にそのことこそ、あるいはそのことのみが真実である。

ということは、森羅万象一切に真実はない(変わる)のであり、そのことがとりもなおさず真実(変わらない)の姿であることを物語っている。

逆説的でアイロニカルな世界観だが、もちろん何も奇をてらっているわけではない。

🤔🤔


希望的観測が真理ではない

ここまではよろしいでしょうか?

え? それは真実というよりも、真実の”相”であり、”あり様”であって真実そのものではない?

もちろん、「真実」というものの定義自体が明確ではない、と言えばそうかもしれないが、ここでは学問的にどーの、ということではなく、それは簡単に

「絶対不変で、昔から今までも、そしてこれからも変わらないものである」

という事柄を指すことにしたい。
もちろんそれらには、裏も表もないし、はじめも終わりもない。
だから、表向き○○に見えるけど実際は▽▽なんだってとか、はじめのうちはそうだろうが行く行くは全く反対なものになっちゃう・・などというこの世的なアルアルはない。

ただ一つ、そこで注意しなくてはならないのは、それが往々にして「希望的観測」の結果と重なっているケースが見られるということだ。

「愛」「平和」「永遠」「善」「正義」・・など1ダースほどもある美しく、勇猛で、時に超越的な概念がそうである。

これらは、その言葉と人間を等価にみて、しばしば「人間とは○○である」と語られてきたし、今もそういった信念で生きている方も多いだろう。

しかし、残念ながらそれらはもちろん「真理」とは言い難い。
別に説明不要だろうが、なぜならば、少なくともこの世の多くの場面では、

憎しみの尾を引かない「愛」は珍しく、
戦争の合間の小休止が「平和」と呼ばれ、
「あなたとの永遠の愛」が三日で終わり、
「善かれ」と思った行為で相手を傷つけ、
「正義」のために何万何百万という命が散っていった。

そんなわけで、ゆめゆめそれらを「真理」などという言葉で表すことの愚は言うまでもないだろう。

混乱を招く真理の安売り

さて、「真理はない」ということが自明であったとき、あなたはどうしますか?
それとも、ここに至ってまでも、いやそんなわけがないと反論されますか?

「真理などいくら探しても見つからないのは当然の話さ。”この世は何をやってもむなしい”というゲームの結末を知っているものにとっちゃあ、人生なんて言うモノポリーゲームは、所詮は無駄な努力を積み上げるだけのもんだからね。 ああそうさ、そもそもこれから先も”生きていく意味”なんてものもないんだよ。君はそんなことに今頃気づいたのか? お気楽なもんさ」

と自嘲気味に諦観されますか?

それとも、

「え? 何? 真理がないんだと? 俺が半生を費やして探求してきた真理がない? そう簡単に結論を出してもらっちゃあ困るんだがね。 だいたいね、科学にせよ哲学にせよ宗教にせよ、すべては真理の探究のためにあるんじゃないのか? 人類は数千年来このかた、真理と言われる到達点を目指して前進してきたんだし、これからもそうあるんじゃないのかい? そいつがたとえ今、眼前になかったとしても、人類はそれの探求の手を休めてはいけない」

果たしてそう色めきだしますか?

まあ、ここはそう急がずに少しずつ先に行こうではないですか。
こうもいえないでしょうか?

「真理」というものはあります。

かえって、すでにあるという事実が、人間をして混乱・堕落させる大きな要因になっているのでは? そういう見方もあります。

逆もまた真なり──真理の安売りというか乱発も、また混乱を招くものだからです。

この手のパニックは、何か論理的な結論に齟齬が生じた場合などによく見受けられます。
例えば、動物好き、植物好きに悪い人はいないなどという一般論が暗黙の「真理」としてあったとして、それらの人々が殺人などの犯罪にかかわっていた・・などという例は珍しくないものです。

さらに言えば、
よく、事件後に、凶悪犯の近所の住民へのインタビューなどで耳にするあのコメント、

「まさかあの方がねえ・・。普段から子煩悩で、子供さんの送り迎えなんかもきちんとしていましたよ。朝なんかもこちらから声をかけなくても明るく挨拶をする人で、とてもそんな(ひどい)コトをする方には見えませんでしたねえ、驚きです」

世間体がいい=いい人だ=まじめだ=実直だ=明るい=如才ない=子供や動物、弱いものをいたわる=悪いことはしない=善人だ
は高い確率で成り立ちません。
安直な真理なるものはないわけですな。

覚悟してください、今から「真理」を記します


ラルフ・ワルド・エマーソン
=Wikipedia

世に「真理」について語ったものは、おそらくは膨大な文献にその痕跡がしのばれるかと思う。
さらに、その中にも「これは本物だ」と、読み手を唸らせるものも少なからずあるだろう。

もちろん、その受け取り手(読み手)によって解釈は違って当然だが、大方が名実ともに「真理」を語るものとみなして間違いないと太鼓判を押す人物も稀にいるものである。

この精神世界についての探求は、どういうわけかインドなど東洋の国々で盛んで、多くの逸材を輩出している。
そんななか、欧米社会ではこのエマーソンという人物、またはその著作は、群を抜いて秀逸だと思う。
彼は、アメリカの魂ともいえる詩人・ホイットマンや、あの『森の生活』のソローの友人として、また師としても有名だ。
もちろん、彼らは私も大好きな仲間たちだが、その総帥たるエマーソンの詩を次に掲げてみる。


我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。それに対し、人間の内には全なる魂がある。それは智者の沈黙であり、この世界の美である。全なる魂故に、あらゆるかけらも粒子も、等しく永遠なる一者に関係している。そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。見ることと見られるものであること、見る者と見せ物、主体と客体がひとつであるのだ。我々はこの世界を部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである。── ラルフ・ワルド・エマーソン『The Over Soul』よりWikipedia


インドのヒンドゥー哲学、ヴェーダに影響されたというその一元論的な世界観は圧巻である。

これが「真理」である。
? と言うのもおかしな物言いではあるが、少なくともその「真理」の外観を美しくなぞった筆致ではないだろうか?

さあ、もう大丈夫。
あなたは真理のシャワーをいま全身に浴びたのだ。
明日から、いや今から、あなたは真理とともに歩むことになる。
もはや何も恐れるものも、そして悲しんだり憂いたりするものもないままに・・。

──もちろん、このような言葉が欺瞞であることは、言うまでもないだろう。

私たちが太陽光線や空気、水が無くては生きていられないことは真実だ。
それら生命の根幹は、何物にも代えがたいものである。
しかし、だからと言って、いくらそうである事実を唱えていたところで、肝心のその光・空気・水が物理的に遠くにあっては何の意味もない。

真理は言葉や知恵、文章では届かないところにあるからだ。

しかし、おかしなことだが、それをさも当然のように大衆に説いている組織がある。
それを、世間では「宗教」と称している。

真理があるなしによって何も変わらない
これが正解ではないでしょうか?




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