いつものことですが、私の書くものはいわばスケッチのようなもので、そこでは論理性や整合性などは意に介さずに”素描”しているにすぎません。
また、私は(よく見かけるように)有名な哲学者や学者がこう言っているから・・などと学術的にその主張を敷衍したり、それに同調したりすることはしません。
そもそもアカデミーで論じられるような人物には興味がないし、立派な識者のご意見はその研究者などがさらに研究を進めてもらえればよいと考えます。
粗削りでもいい、今必要なのは(私も含めて)あなたのその個人の考えです。
人間の最後の切り札
「一寸の虫にも五分の魂」で、人間の最後の切り札は「心」「魂」であって、決して地位や名誉、富、風体といった”上っ面”ではなく、もっと尊いもの、かけがえのないものとしての存在であるし、またはそうあるべきだ──。
「あいつはなるほどちょっとぶっ飛んじゃったところがあるけれど、ハートだけは熱いさ」
「俺もケッコーぶらぶらしてきたけれど、心だけは汚されないようにしてきた」
などといった会話もフツーにあるくらい、心や精神といった目に見えないものは、万人が共通して敬う対象になっているものである。
スピリチュアル・精神世界に関心を寄せているあなたもそうではないだろうか?かくいう私も、つい昨日まで、(いや実は今でも)そうした意見に賛成で、どんなに頭がよくても、心がないもの、冷たいものは、人間として最低であると任じてきたし、また過去にそんな発言を多くしてきた。
また、実際に人生の来し方を振り返ってみても、心の美しい人物、そしてまた、それがすっかり荒んでしまった人物というものとも多く出会ってきたように思える。
(いや、自分自身の胸に手を当ててみても、その心のふり幅とでもいうものは十分に見て取れる)
人間の真価は心なのか?
となってくると、人間の真価は心──その持ち様、あり様──で決まる、という結論に行きつくわけである。
もちろん、このような考え方は私独自のものではなく、どちらかというと東洋にその傾向が強い唯心論的な傾向と言えるだろう。
人間の考えというものは個人のものではなく、人類=民族を代弁している。
仏教、キリスト教はじめとした大宗教の教えや、黙示録を含む預言書などにもそうした言葉は多く記されており、そこには、同時に金やそれによる権力、暴力を諫める警句もあふれている。
そうした考え方(教え)は、人類の(とりわけ東洋においての)伝統であり、何世紀にもわたって積み上げられ、我々のDNAにインプットされた歴史のようなものだろう。
そこに善悪はない。
さて、この考え方、姿勢はどういったものだろうか?
という問いかけである。
私見では、過去に、この(唯心論的な)考え方に真っ向から反対するものは僅かだったろう。
いかに唯物主義的な世界観といえども、それに「狂信的」とか「迷信」とかのレッテルを張って無視するような素振りはあったにせよ、その根っこには「恐れ」があった。
むしろ逃げ出したかったに違いない。
人類のバックグラウンド
バックグラウンドが、いったいどういう風になっているのか、
私にはそれが重要に思われる。
ここで言うバックグラウンド(BG)とは、私(あなた)が今ここにいる背景──因(よ)って来(きた)るもの──構成要素──原因──経緯──歴史、沿革などなどのファクターのこと。
要は「何で僕はここにいるの?」という問いに対する答え、その理由付けを言う。
私は誇大妄想狂なので、デカいことしか興味ないし、取り合わない。
もちろん、私が言うところの「大きな問題」というもの自体がクセモノで、そんなものが実際は大きくも、偉大でも、命題でも、大問題でも何でもないのだ・・という可能性は大いにある。勝手に私がそう思っているだけの問題だからだ。
しかし、あえて述べるとすれば、なぜ、それが大事なのか?
何が今の人間を形成しているのか? が大事だからである。
なぜ大事なのか?
それは、
人間が21世紀の現代社会においても一向に幸せになったわけでもなく、戦争や犯罪がなくなったわけでもない。いやむしろ、それらの闇は増大し、複雑化し、もはや二進も三進も行かないような局面に差し掛かっているかのように見えるからである。
違いますか?
つまり、何が言いたいのか?
と言うと、そうなるべくしてなった原因は何か?
という問題である。
これは、いい悪いではない。
正しい間違いでもない。
どのような力がそのような方向に人類をして導いているのか、だ。
それは、これまで我々人類が努々(ゆめゆめ)それが逆に反対方向に導くベクトルであるとは思わなかったものに違いない。
愛、神、真理、宇宙、絶対、永遠、恒久、悠久、涅槃、無限・・その他一ダースほどもある名辞に象徴される概念がそれである。
何度も書いたように、それらは人類のたっての願い、悲願、宿願、理想、ユートピア、ないものねだり、希望・・そして妄想である可能性も、これまた大いにある。
上の投稿でも触れたUG.クリシュナムルティの主張などはまさにそれである。
彼のご意見は、それら概念は人間の思考が作り上げた、──言葉を換えれば──でっち上げた妄想であるというもの。
もちろん、前代未聞の過激な考えであるし、それは宗教・倫理・精神的な営みといったものへの挑戦状でもあるだろう。
すべて思考がでっち上げた虚像なのか?
愛
すべてが失敗したとき、あなたはトランプの最後のカード、切り札を使い、それを愛と呼ぶのです。
このエピグラムなどは、皮肉っぽいニュアンスから嫌う人も多いだろうが、もしかしてその通りで、
困ったときの「神」
空虚を埋める都合のいい言葉「真理」
獏とした時空に対する「宇宙」
経験したこともない概念「絶対」
・・・
それらがUG.クリシュナムルティの言うようにすべて「思考」が作り上げたホログラムとは言えないものの、少なくとも安直にそうした形而上の(目に見えない)概念に逃げて云々することに終止符を打たなくてはならない。
さらに言えば、もしそれらが本当に「思考」の仕業であるとしたら、だからと言って別にがっかりすることもないのではないか?
なぜなら「思考」の正体はまだ不明だからだ。
「思考」という(自分の都合の良いように)ほぼ何でも自由に塗り替えてしまうようなメソッドの正体は何者なのか?
単に大脳生理学的な問題なのか?
人類はそれを解明しなくてはならない。
(それは科学でも宗教でもない、量子力学的=量子脳理論=なものかもしれない)
私が、UGを取り上げたのは、彼の言説が正しいとかだからではなく、何かしら「心」と言われてきたものに風穴を開けないことには、あと何百年だか何千年だか知らないが、人間のこの旧態依然とした膠着状態は変わらないだろうと予測するからだ。
こういうことなんです。


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