つげ義春といえば、漫画雑誌『ガロ』で、つげの作品(『通夜』だったかな?)をリアルタイムに見て以来だから、もうかれこれ半世紀以上も私の心の片隅でこの作家は生きていることになる。
(中学時分に、友人と二人でその版元である当時の青林堂を訪れ、名物社長の長井勝一氏=水木しげるの漫画にちょくちょく顔を出す=と相まみえたことはどこかで書いた。といっても確かその小さな出版社が入っていたのであろう神田の材木屋の二階で、僕らに対する気さくな長井さんの声掛けに、シャイな少年はろくに返答もできなかった、というのが正確だが・・)
川っぺりで石を売る
さて、『無能の人』は、つげの中では決して傑作とは言えないのかもしれない。
つげさんの絵は、その作品によって、べらぼうに上手いなあ、と思わせるものと、なんだかデッサン自体もおかしいな、といった故意に下手に描いたようなものが入り混じっている。
この作品は、どちらかというと後者に入る。
内容的にも全編を暗い寂寥感が覆っていて、その枯れたような世界観は好き嫌いが分かれるところだ。
世を拗ねた、比較的わかりやすいニヒリズムを漂わせる主人公(つげさんのペルソナ?)と、これまた分かりやすい社会との軋轢が、例によって特有のユーモアを交えて描かれる。
ま、思い入れがある作家について書くと切りがないのでこの辺にしますが、連作『無能の人』で出色なのは、やはり『石を売る』だろう。
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おれはとうとう石屋になってしまった ほかにどうするアテもなかったのだ =つげ義春『石を売る』の冒頭シーン |
先のニヒリストが、多摩川の川っぺりに庵を結び、そこで石を売っている。
「孤舟(こしゅう)」とか、いかにもの名をつけて・・。
まあ、その名があらわすように、それは商売人が付けたものではなく、知識人、学者(くずれ?)が名付けそうなそれである。
銀座四丁目あたりの露店で売るならまだしも、もちろん、そんな石は、その辺にごろごろ転がっている。
知識人たるニヒリストのやる商売(いわゆる”ダンナ芸”)は、このように世間から遊離しており、浮世離れをしている。
その根っこには「俺は他とは違うんだ」的なプライドが見え隠れしている。
なんだかそれが余計に痛々しい。
無能の人というテーマ自体、「世間からは無能という扱いを受けてはいるが、こんな物質至上主義、功利主義がモノ言う世界で、有能たって単に商売上手、自分を売り込み上手なだけじゃあないか、笑わせるな、俺は無能で結構、無能呼ばわりされて結構、俺の能力は金のためではなく、芸術のためにあるんだ」的(と言っても長すぎますが(笑))なニュアンスが込められていそうだし、事実作品にはそんなメッセージがちらつく。
やんなきゃいいんじゃないか、と思う。
石でも作品でもゲージツでも何でも、無能であることを自覚しているのであれば、
そんなことやんなきゃいい。
中途半端に自分の才能を信じて(自認して)いるから、それをやる。
無能であるから、石すら売れない・・なんて辛口な、しかしよく考えてみればまともな意見さえ出てくる。
自分の力のなさを自覚する強さ
かつて、『がっちりマンデー』だったかで、ニトリの会長の似鳥昭雄さんが面白いことを言っていた。
ニトリの1号店は、札幌で「似鳥家具店」としてオープンしたそうだが、そこには「2号店」と謳っていたそう。
1号店などはどこにもないが、「ある程度やっている会社なんだなあ」と周囲に思わせるためだったとか。
そこには杓子定規に正攻法を表看板にするのではない発想がある。
彼は自らの幼少時代を振り返って「小学6年生になっても自分の名前を漢字で書けなかった」と、自らの発達障害を公表したが、ある意味で「自らは無能である」と痛切に自覚していたともいえる。
また、『ラジオ体操の歌』のパクリを社歌にしたり、そもそもの手羽先の焼き鳥も含めて、自ら「パクリ人生」を公言してはばからなかった居酒屋チェーン「世界の山ちゃん」の前社長・山本重雄さん(故人)がいる。
そこにあるのは謙虚というか、自分がない人物像だ。
彼はためらうことなく、正直に「〇〇をパクっています」と言う。
自分には才覚がないから、周囲の面白いと思ったことを取り入れるのだ、というその「生き
《我々は「変」であることを楽しみます/我々は毎日「変」を磨きます/我々はみんなに「変」を伝えます/我々は「変」であることを誇りに思います/我々は「変」な人たちを愛します/我々は「変」でみんなを幸せにします/我々は「変」で世界を変えていきます》
自分でできなきゃ他人にやらせる
たまたま思いついた人物をここに挙げたのだが、お二人とも「自分はダメ(無能)だ」という深い自己認識がそこにあるように思えるからだ。
もちろん、一家を成すにはそれなりの資質がそこにあったからであろうが、それはよくありがちな「帝王学」やらうんたらとは違うようだ。
少なくとも普通のレールに敷かれた「教育」を受けたものに、そのような発想はない。
お二人ともそれを逸脱していた。
では、仮に自分に本当に能力がないとしたときに、どうするかだ。
落ち込むとか言ってられない。
何も出来ないと自覚したものは、他人にそれをやってもらえばいいのではないか?
有能なブレーンなりをつけるか、
そうした人材を育てる。
または集める。
自らは「こうしたい」というビジョンを描くだけ。
その実際の方法論なり、実践は他の人にやってもらう。
むしろ、そこに口を出さないほうがいい。
(責任者が部下に、社長が役員社員にうるさく口をはさむ会社が大きくなるはずもない。松下幸之助さんではないが「やってみなはれ」である)
それは使われるためのスキルである
人間には、自ら描くビジョンに向けて、切磋琢磨して艱難を乗り越え、その持てる能力をフルに発揮するタイプと、それらをすべて他人任せ、と言っては何だが他人にやってもらう、やらせる、というタイプの二つがありそうだ。
後者は経営者の器ともいえそうだが、そのためにはつとめてエキスパートである前者が必要となる。
これを逆の立場から見ると、つまり、自分が高い能力を習得すればするほど、ヘッドハンティングよろしく、どこかで(後者によって)使われる身に転じる可能性もあるということ。
それが当人にとっての僥倖であるのであれば、それはそれでケッコーなことなんだろうが、もし彼の野心が会社の経営者(社長)になることであったならば、それは無念なことだろう。
私もいわゆるライターという稼業に従事していたころに、ある先輩に言われたものだ。
その仕事は、とかく自己満に陥りがちなものだが、いわゆる「書ける人材」などは、世の中に履いて捨てるほどいると。
つまり、われわれはその中のほんの一粒の砂のようなものだと。
そうして、書けるものとはリクルートされるものであって、そこにもし技量があったにせよ、それは身売りのためのスキルでしかないと。
九分九厘はそうなのかもしれないと思った。
しかし、自分は『無能の人』ではないが、「ほかにどうするアテもなかったのだ」的に漫然とそれに従事していたわけだ。
問題は、書く内容であって、それをどうしたいのかだと。
そう思ったものだ。
ライターだろうが何だろうが、スキルを磨くのは結構だが、目的はそれではない。
それをどうしたいのかが重要だ。
では経営者に必要なのは何だろうか?
技術やノウハウだろうか?
私はまた実際の経営者というものにも数人お会いし、中でも首都圏でさる製紙工場の社長を引退されたFさんとは公私ともに親密なお付き合いをさせていただいた。
彼は社長という役柄(?)政財界ともパイプがあり、ダーティーな一面ものぞかせていた。出版の世界にもある程度顔が利き、そんな話を聞くにつけ「なるほど、だから昨今の出版物に面白いものがないんだなあ」などと合点がいったものだ。
しかし、引退されたとはいえ、そんな彼から製紙会社の中身について、まして技術的な話についてはついに聞いたことはなかった。
会社の最前線が何をやっているのか知らない。
大手の会社になるほど、その経営者からのそんな声を聞くことがある。
それは裏返せば、そうしたセクションが健全に機能して、任せられているからなんだろう。
【大事な問題】志願して一斉に何になるのか?
私は、元来社会でのし上がって一家を成すなどという野心とは無縁な人間なので、当然経営者、リーダーとしての哲学などを語る資格もないし、またそんな気もない。
ただ、ごく身近な、大勢を占める人々の動向を見てみると、そこに何かおかしな点があるように見える。
というのも、一斉にリクルートという「目的」「目標」「到達点」が未来に掲げられて、そこに向かってレミングシンドロームのように走り出しているかのように見えるからだ。
だいたい「就職」という言葉がまるで命題でもあるかのように幅を利かせている。
そもそもの問題はそこではないだろうか?
そのための学問(であること自体がおかしいのだが)、
そのための学歴、
そのためのスキルアップ、
そのための人脈、
そのための教養、
そのための職歴、
そのためのポートフォリオ、
そのための技能、
そのための資格、
そのための読書、
そのための一般常識、
そのための服装、
そのための笑顔、
そのための家庭環境
・・・
みんな一様の”型”がそこに出来上がって当然ではないか?
もちろん、それに反逆、逸脱するものもいるが、それさえも型がある。
みんな志願してはいないのだろうか?
つまり、安定した会社、福利厚生などしっかりした会社、
よりよい職場環境・・・なんであれ、そこに雇われること、身売りすることが第一義であるとき、そのものの人生はまさしくそのために捧げられることになっている。
そうしてしかるべき会社に就職してからが、また大変な問題がそこに待ち受けている。
「説明会で聞いた内容と違う」
「こんなことをやらされるとは思わなかった」
さすがに聞き飽きたそれら不平不満は、どーにも自己矛盾があるように見える。
こう言う言い方には語弊があるだろうが、会社とは「そういうものである」からだ。
志願してその企業なり会社に入ったのであれば、それこそ下足番から便所掃除までやる覚悟が必要ではないか?
でなければ、そもそも就職などせずに、自分でやればいいではないか?
と。
「良くなりたい」と思ってことを成すものと、
「(みんなに)良くなってもらいたい」と思うもの。
どちらがいいかではなく、どちらに「拡がり」があるだろうか?
前者には「自己」があるが、後者にはそれがない。
前者は個人が良くなっておしまいだが、後者はみんながよくなるまで終わらない。
しかも、だれでも気づくように、個人一人の社会なるものは宇宙には存在しない。
会社というものは、後者の理念なり志が凝縮したものだ。
その中心(社長・社主)は、己を空しゅうするものだ。
語弊を恐れずに言えばそのものは「無能」でなければならない。
しかし今日、その後者の主軸たるものが前者に、すなわち私利私欲に走るものが多いのは、雇われ社長としてリクルートされそのポジションに収まったりと、理由は何であれ、その会社・企業の理念が潰え去ってしまっているからに他ならないのではないか?(「社会貢献」などの聞こえの良い”理念”は耳タコではあるが・・)
仮に、人材育成において、
前者がエキスパートを育てるもの
後者が、経営者を育てるもの
としたときに、果たして私たちの学校教育、社会教育に後者のためのものがあっただろうか?
自分の知識、技量、テクニック、ノウハウ、スキルを拡大するやり方はあったとして、
果たして自分の無知、無力さを教える教育があったのだろうか?
自らの”無能の人”を自覚するものは、
さながら台風の目のように周囲を巻き込んで、大きなものになる。
一方、自らの才能や知識に満足しているものは、それに巻き込まれて飛び散り、砕ける。
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