──君は「スピリチュアルを否定するスピリチュアリスト」とかなんとかわけわからんことを言っているが、一体どういったスタンスなんだい?
言葉はどーでもいいが、スピリチュアルは人間がつくった概念で、つまりは妄想だ。往来を大勢のスピリチュアリストが歩き回っているというのも気色悪いから、そんな意味では僕はスピリチュアリストですらない。
──あのね、そういう言い切りは良くないよ。それで飯食っている人たちは大勢いるし、それを信じている人たちはさらに多いんだから。それで、君は人類の過半数以上を敵に回すことになる。
つまりは人類の半数以上は妄想に生きているってことになるな。だいいち、スピリチュアルという言葉はSpirit(魂)から来ているが、魂ってなんだ? そんなものどこにある?
魂って何? それって大事なものなの?
──(おいおい、なんだか頭の固い頑固おやじと喋ってるようじゃないか・・)魂っちゃ、アレだよアレ。人間の一番大切なもの、その中心にある精神に決まってるだろう。
屁理屈で返すわけじゃないけど、それは、赤い色が何かと言われて「Red」とか「紅」とか答えるようなもんで、言葉のすり替えでしかないよ。それに、精神が人間で一番大切なものであるのかどうかすら、僕には分からない。まして、それが中心にあるというが、中心なんてないよ。いいかい、大事なものが中心にあったときに、それを逸れているものは大事ではない、不要なものくらいになるだろう? 僕はそんな考え方を認めない。それはヘソは重要視するが、オッパイはさほど重要ではないか不要だと言っているようなもので、少なくとも僕の中ではオッパイの方が重要だ!
──まあ話は分かったとして、君は変なところで力むな。角度を変えてみれば、精神とはすなわち目に見えないものであって、それがなければ人は単なるロボット、AIみたいなものになっちゃう。第一、生きていけないじゃないか。
であれば、それは生命(Life)と言えばいい。なぜに精神か? スピリチュアルか? どうしてそれらを持ち上げるのか? 特別視したり神聖なものとして扱うのか? それを体系立ててどうするのか?
──だって、まず精神(形而上世界)があって、そこから物質(形而下の世界)が生じるからさ。仏教哲学でもそれが根幹だろう? だから精神は物質に先駆けて重要なものと言えるんじゃ・・。
それじゃあ、この肉体は生涯精神の奴隷だという思想だね。スピリチュアルを重要視して物質世界よりも上位に置こうとするのは、生臭すぎる宗教の差し金という世俗的な問題がまずある。それはそれは酷いもんだからねえ。それはともかくとして精神が物質をつくっているというその考え方そのものが、スピリチュアルなんだよ。ここでのスピリチュアルは偏向しているという意味だがね。それを語るものはほぼ同様の見解を示すんだが、その見方は物質的だねえ。
──ぶっ、物質的?
少なくとも、精神という漠としたもの、目に見えないモノを、物質という真反対なモノ、測れるモノと並列に述べていて、それを比較している。それは、僕たちが数学でやる方程式を無理くりつくって、それに解を導き出すようなもので、まさしく物質的または三次元的なやり方だし、ものの見方ではないか?
──僕らはとかく論理的に物事を進めようとするからね。納得いかないものも納得した体で、知らないものは知ったような体で扱うな、確かに。
精神世界は地上から眺めた景色である
精神世界を見ようとする、それを云々する、そのこと自体が二元論的というか、恣意的というか、一つの作為だよ。その目線はどこにあるのか、と言うに、それは他ならないこの地上にあるんじゃないか? つまり、精神世界を探査するという時点で、それは物質的な所作と言える。私たちは、自分で作ったサーチライトで周囲の暗闇に光を当てているだけさ。
──論理性そのものが怪しくなってきたわ。それはこの三次元世界、物質の世界だけでしか通用しないということかい?
うん、スピリチュアル~と言った瞬間に、それはフィジカル(肉体的)とか、マテリアル(物質的)という反対の世界を想定している。物質がなければあり得ないというそれは二元性の言葉であり、だから「概念」だ。そんなものは絶対でもなんでもないね。
──概念だから実在しないものだと。二元性だから嘘だと。
いかにも。生命を分断しようとするからスピリチュアルとか物質世界とかが出てくる。あそこに立っている樹は物質的でも精神的でもないし、またそう見ようとすればそうだ。それは、人間が勝手にそう思っているだけで、実はそれだけのことだ。
──なんだか殺風景な世界観だな。
宗教的、神秘主義的な「おとぎ話」を排除しちゃったからね。人は物語に依存して、夢をはぐくもうとするから、少々肩透かしにあった気持ちになるね。ただし、「生命」というものは未知のものだ。スピリチュアルとかマテリアルとかそんな言葉遊びは置いておいて、僕たちが入って行かなくてはならないのはそこ(生命)ではないか? いや、これから僕たちが見ていかなくてはならないのはそこだと思う。「ありのまま」「あるがまま」は一見平凡に見えて、実は未探査な世界さ。その生の内容にこそ未知のわくわくする世界が広がっていると思うよ。
アセンション~2025年~終末と再生?
──じゃ、聞くが、君はかつてよく語っていた「アセンション」とか、新時代(みずがめ座の時代)とかについてはどう位置付けているんだ?
アセンションというが、今言ってきた文脈、伏線の先にそれはない。といって、僕はそれが起きないとは言っていないし、むしろとんでもなく想像を絶する形でそれは大いにあり得ると思っている。ただ、この世的などのような概念(言葉)でもってしてもそれを表すことが不可能だと言ってるんだ。だから、その辺のスピリチュアルをかじったものが、喧々諤々にそれを語っているのは苦々しく感じるのさ。それが詐欺だからという以上に、そもそも絵に描いた餅を食べるわけにいかないからね。
──一部のスピリチュアルに傾倒している人々は、もうじき世界は一旦リセットされ、そこらじゅうが火の海になる。その後に千年王国のような輝ける未来が訪れると騒いでるね。また今年2025年の7月という月まで切ってその転換の日が来るとか・・。
別に自慢して言うんじゃなくて、その2025年のことにしても僕はすでに10年以上前から知っていたし、そこにある神示に至っては半世紀も前から知っており、それぞれ検証してきたさ。そこにある事象は起こるかもしれないし起こらないかもしれない。タイムラインというものがあるとして、それはいつも「今」から始まるから予見なんてできないよ。それよりも不思議に思うのは、明日どうなるかもわからないのに、なぜみんなその特定の日にどうにかなるのかを気にするんだろうか、だな。
──カタストロフィ願望っていうか、終末時のリセット・・早い話、富士山をはじめとした火山の噴火やポールシフト(地軸の転換)、超ど級の大津波なんてとても生きていけそうもない「変化」を言われているね。しかも努めてそれを望んでいるような節すらある。そいつは見方によっちゃ狂信的ともいえるな。
ただ一つ言えることは僕は終末論を信じないってことさ。どうも、エリートというものは、世の中はスクラップアンドビルドで次に進むという発想に凝り固まっている。スマートシティ計画にしても、森林だけではなく既存の住宅を焼き、更地にしてからという非道なやり方を推し進めてるからね。で、その後に現れる都市なり社会が一体どのように素晴らしい、輝けるものであるかが問題じゃないか? その成果が管理社会や監視社会であった日には、それはエリートにとってすばらしいだけのことだろう? それと、気になるのは古典的な予言書『ヨハネの黙示録』やエチオピアの『エノク書』からして、ハルマゲドンだかの後にメシアが登場することだ。大乗仏教の末法思想にしてもそのときに弥勒が現れる。つまり、終末と夜明け(メシアの登場)がセットになっている点だ。それはいったい誰だろう? しかも預言者はいずれも「聖人」で、高いところにいるというのがちょっとね・・。もし、それら予言が「権威」となっていたとすれば、だれがそれを何のために権威付けしたんだろうか?
──え? まさか自作自演だと?
まずは予言というものが誰がそれを降ろしているのかが問題だ。また誰がその内容を語っているかだ。そいつは人だろう? 神霊と言えども人だ。しかも注意して見るとき、そこにヒエラルキーがある。高級神霊というとき、そこに階級、階層がある。聞くものはみなそうした上位の言葉に敬虔な気持ちを抱くさ。しかしそのように宗教につきものの《神──人》という二元性があるところに真理はない。そこでは、人はついに神に頭が上がらない奴隷になるからだ。終末論的な世直し、世の建て替え立て直し、闇の終焉・・それらは予言というよりも、人類の悲願、いやそれ以前に悲鳴、絶叫を下地にしているように見える。そうあってほしいという願いを別に否定するつもりもないが、その後が問題だ。メシアが出て、世界の民族がそれにひれ伏す、拝む、などという未来像はぞっとしないじゃないか。ていうのも、過去にそんな例があるからね。大峠だかコトウゲだか知らんが、どうして一旦終末を迎えて、そこから出直さなければならないんだろうか?
──コトウゲは、バイきんぐだよ。
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