もし、今日一日、あなたがあまり活動的ではない日だったとしましょう。
しかし、それでもあなたは朝起きてから眠りにつくまでに、ものすごい数の情報(人の言葉)のシャワーを浴びています。
私的なことから社会的なことまで、
つまらないことから重大なことまで、
自らそれに耳をそばだてることもあれば、そうしなくても耳に、そして目に飛び込んでくる情報量は膨大なものでしょう。
しかもそれは外からだけではない。
あなたの内からの声もまたひと時も止むことがない。
結局のところそれがあなたの「世界」であり、
また残念なことに、それが私の「世界」でもあります。
一旦、頭をリセット(初期化)してみましょう。
何がいい、悪いや
何をすべき、してはならない、
何からすべき、
何が好き、嫌い
・・それらすべてを排除は出来ませんが
・・そうしている自分を見つめることは出来るはずです。
「ああ、自分はいま○○がうまくいかないことに頭を悩ませているんだなあ」
とか、悩んでいる自分を置き去りにして、
そこから離れてみることです。
そもそも生まれ落ちたときには、そんな問題の数々はなかったはずです。
疑問が知恵を生む
赤ちゃんの目を見たことがありますか?
生後しばらくは、どこも見ていませんね。
多分(想像ですが)彼、彼女は世界が目に入ってはいますが、認識は出来ていません。
そのうち、覗いているこちらを目で追うようになり、笑顔さえ見せるようになります。
快不快が最初の認識で、また泣き笑いがその表現ですね。
次第に喜怒哀楽のような感情が芽生え、
三歳児くらいになりますと、「知恵」がついてきます。
兄弟などを見ていますと、下の子は兄が何かへまをやらかしますと、それを見ていて、自分はそのことを事前に回避しようとしたりします。
それを俗に「知恵がついた」とか言いますね。
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なんだろう? |
知恵とは何ですか?
それは先天的に持って生まれたものでしょうか?
あるいは、前述のように経験を通して身につけるものでしょうか?
知恵と知識が違うことはお分かりかと思います。
「物知り」がイコール「知恵者」ではないからです。
また、同じ知恵でも智慧はまた違うという意見もあります。
情報(知識)のシャワーは洪水のように押し寄せてきます。
それがそのままであれば、単なるカオスですし、そのなかの気に入ったものを無批判に受け入れれば、それは単なるロボットです。
その中には他人の作った「知恵」の産物も多数含まれていますが、それを受け入れることはあなたの知恵とは無関係です。
たとえばクルマやハイグレードのスマホを手に入れたりしたとしても、そこには開発者の知恵がびっしり詰まってはいますが、あなたがそれらを作ったのでもなければ、またその知恵を開発したのでもないからです。
知恵は疑問から生まれます。
疑問は発明や工夫をもたらします。
それが次代を築いてきました。
疑問というものは、このように人が人としてあるための生来の感覚であり、それがあってはじめて人は生きてゆくことができます。
それは終始自分に始まって自分に終わります。
なぜなら、もし、ある人が「熾火を伝って歩けば大やけどをする」といったことに疑問を抱かずにいれば、その人にとっては生涯そうしたことは不可能というレッテルを張って生きます。
しかし、「もしかしたらできるかも」と、疑問と少しの勇気を抱き、そういう意見を無視してそこを歩いたときに、彼は新しい発見をします。
疑問は常に純粋で、未来を切り開きます。
実はそれこそが知恵の生みの親であるからです。
しかし、それをどーも「いけないこと」「悪いこと」「賤しいこと」と思うような心理が人の深層心理にあります。
「疑心暗鬼」とか「猜疑心」という言葉があるように、一般には疑問は歓迎されないようです。
なぜなのでしょうか?
それには「信じることこそが人としての純粋な姿であって、尊いものだ」という大いなる思い込み、刷り込みがあるからではないでしょうか?
「人の好意を素直に受け入れなさい」
「なぜ先生が○○を正しいと言っているのに、それを素直に受け入れないの」
「誰もがそう言っているのに、なぜ偏屈にそれに逆らうの」
要は、黙って信じなさい、その方が楽だし、正義なんだから、ということです。
社会の通念としてそれがあります。
それは「宗教」です。
そして、宗教は支配側にとってはこの上ない最強の武器なのです。
「知恵」を原罪としたことが「原罪」である
さて、話はそーと―飛ぶのですが、
あなたは「旧約聖書」を読まれたことがありますか?
そう、ユダヤキリスト教の聖典です。
そこでは「知恵」こそが原罪です。
ところで原罪って何ですか? ですが、
それは、そもそもの罪です(←言葉の置き換え(笑))。
罪を辿れば原罪に行き着きます。
それは人類が最初に犯した犯罪だと目されているんですから、「おい、ちょっと待てよ」ではないですか?
それが何? よりによって知恵を得たことだと?
有名な『創世記』のなかに出てくるアダムとエバ(イブ)が蛇にそそのかされて、その知恵の果実「禁断の木の実」を食べたことに始まることは、ご存じの通りです。
そうしてエデンの園を追われたのです。
(ちなみに、そこは「楽園」という意味ではないそうですが)
重要なのは、「禁断の木の実」とは「知恵の実」である、という一点です。それが、リンゴであるとかイチジクであるとか様々に言われてはいますが、すなわち象徴です。
ところで、イブをそそのかしたその哀れな蛇は、
「あの木の実を神様が食べさせないのはあれを食べたら神様と同じような高位の力が得られるからに違いない。 きっと、あれを食べたら神様みたいに永遠に生き続けられるし、神様と同じように賢くなれるかもしれない」(以上Wikipediaより抜粋)
と言ったことで永遠に罰せられることになったわけですが、あなたはどう思いますか?
私は「なるほど、ごもっともな指摘ではないか!」と思うわけで、この蛇こそ「疑問→知恵」の象徴ではないでしょうか?
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知恵の樹:ウィリアム・ブレイク画=Wikipedia |
──以下は、あくまでも私の「主観」ですので、読者が敬虔なクリスチャンであるならば、どうか笑いながら(憐れみながら)許してほしいものです。
神にかかっては何でもござれ?
ところで、創世記だけでなく、『聖書』そのものが、私にはどーにも馴染めません。
別に馴染む必要もないのですが、わたしにはそれが非常に面妖な、単なる一部族の、力にものを言わせた物語に映ります(ギリシャ神話にせよ)。
なぜならば、そこに登場する「神」が、我々(少なくとも東洋人)にとって、あまりにも人間臭い、という以上に、人間の中でも権力と暴力を兼ね備えたもの(支配者)に見えてしまうからです。
その”神”は、あまりにも独裁的で、容赦なく人を律したり罰したりする。
それこそが「神の御稜威(みいつ)」だからなんだと、キリスト教、またはユダヤ教的には解釈するのでしょうが、それはあまりにも狭量であり、嫉妬深く、また暴力的ですらあるように思えてしまいます。
こんなマッチョな神様が・・(*´Д`*)
天地を創造するところからして、解せない。
それは、創世記にいともたやすいことの如く記述されていますが、どんな怪力の人(神)であったとしても、ありえないことをあり得ると「信じる」ことからこの物語は始まっており、信仰の底辺になっていることは、むしろ驚きでしかありません。
(それが偉大なる宇宙の象徴や化身としてのものであったにせよおかしいのですが、どうやらそうではなくアダムからエノクやノアなどが顔を覗かせる系譜までが、我が家の家系図のように述べられている)
そこにいかなる宗教哲学や高邁な論議があったにせよ、むしろこの記述からそうした論議にまで持っていく方が一般の常識というかアタマでは考えられない椿事ではないでしょうか?
いいですか?
そこを飛び越えてしまうことがイコール宗教なのです。
そうなりますと、アダムの肋骨からイブをつくり、それを「女」とした、などから始まって、先ほどの(ずる賢い)蛇を、動物の中で最低のものとしたことで手足を奪っただとか、自分達だけが「善悪」を決めるところを、人間(アダムとイブ)がその分別(知恵)を覚えてしまったことを「原罪」と断定し、いわゆる「楽園追放」の刑に処した、などに至ってはもはや「言いたい放題、やりたい放題」の感は否めません。
おまけに、その知恵を得てしまったばかりに、それまで裸体でいた二人は、急に「恥ずかしさ」を覚え、イチジクの葉で大切なところを隠しました、とまであるわけで・・これはもうあれでしょうが、そんな一事を何ごとか意味深いものとして、それをテーマに多くの画家が絵筆をとったわけです。
しかも、さらに永遠の生を享受できる大切な「生命の樹」を「触れられてなるものぞ」とばかりに、ついに独占し、神様は人間には寿命を定めた。また、これらのことから、男は生涯糧を求めて働かざるを得ないものとし、女には出産の苦しみを与えた、のだそう。
苦しめ、しこうしてなおかつ苦しめ、である。
いかがでしょうか?
その執念深さ。
神と人との間に「契約」を結ばせ、
それを破棄したものには報いを与えるという精神。
独占欲。
それ以上に、それらを神格化する精神構造。
私はユダヤキリスト教を誹謗しているのではありません。
ましてカトリック、プロテスタントを云々するのでもありません。
これは、神道も含めてインド、チベット、中国、中央アジア、などの仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、儒教、イスラム教などをはじめとした大宗教、顕教、密教、ヨーガ、アフリカ、ニュージーランド、ブラジル、ヨーロッパなどの部族宗教、土着の宗教すべてに言えることです。
お分かりのように、私は宗教そのものに大いに抵抗があります。
それには大きな「権威」がデーンと上座に居座っていて、我々下々の人間たちはそこにひれ伏す奴隷だからです。
旧約聖書は、以後上記のように滔々とその記述が続くものですので、エゼキエル書など一部を除いてついつい途中で離脱して、ホッとするんですが(笑)。
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