本気モード【座右の銘】の終焉

2025年3月26日

雑感 老子

t f B! P L
 
わりと、どんな言葉を座右の銘としているかで、その人物が分かったりします。
また、同じ人物にしても、その銘が別なものに変わっていったり、消失していったりすることもあるかもしれませんね。

座右の銘とは、「以ってそれを規範とする」みたいに、自らを律する言葉が多かったりします。つまり、それが行動の指針となるものです。


ところで、私にも、恥ずかしい座右の銘があったように記憶しています。


「忍耐」

「克己」

「為せば成る」

 

白状します。中学校の時はこんな言葉が勉強机の前に貼ってあったような・・(いや、「忍耐」はさすがになかったかなあ)。

しかしそんな言葉を書いた時点で、もう終わったみたいな気がして、それを成し遂げたためしがありません😰

その後も、どこで覚えたのか「起死回生」「一陽来復」「冬来たりなば春遠からじ」とかなんとか、どーいうわけか窮地にいる自分を奮い立たせるような言葉ばかり出てきたような、、💦

そのうち、やや世間を知った風に、

「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)」

などと、どこかの人知れぬ野心に燃えた志士が、目を細めながら世界を俯瞰するみたいなものまで出てきたような、、(フフフ)。



それらの言葉は、なんとなく自らの「本気モード」を喚起するようなものでしたし、今ちょいと調べてみると、実際「座右の銘」はそうした言葉のオンパレードのようです。

どんなものがあるかというと、、、


座右の銘にしたいかっこいい四字熟語
(『マイナビニュース』より部分抜粋)

有言実行

点滴穿石

初志貫徹

万里一空

勇往邁進

一暴十寒

一念通天

試行錯誤

雲外蒼天

力戦奮闘

切磋琢磨

七転八起

仁者不憂

善因善果

桜梅桃李

勤倹力行

粉骨砕身

謹厳実直

温厚篤実

懇切丁寧

無私無偏

慎始敬終(←新死刑囚と変換されて出てくるのにはびっくり💦)

不撓不屈

率先垂範

独立独歩

剛毅果断

緊褌一番

疑事無功

百折不撓

君子不器


いかがでしょうか?
”できる”男は、こんな言葉の一つや二つ、鼻歌のように出て・・来た日には私個人的には嫌~な奴という印象が否めませんなあ・・。

こんな言葉を会話にはさまれちゃったら、ドン引きではないですか?
まだ、「僕の座右の銘は《忍耐》です」の方がかわいい。
(少なくとも、それらの言葉を座右の銘にするならば、面接時や上司の前ではむしろ禁句でしょう? 自分だけに留め、口外しないことです)



さてさて、そんな”長続きしない”座右の銘を持っていた私ですが、二十歳も過ぎたころからでしょうか、ある言葉が40年来の「銘」として長生きしたものです。

どこかで書いた記憶がありますが、その言葉とは、



《人の本気になることに本気にならぬものが、人の本気にならぬことに本気になれる。》


というものです。

これは、私の好きな作家、文明評論家・林語堂氏の往年の名著『生活の発見(『人生をいかに生きるか』)』の冒頭に引用された中国宋代の文筆家・張潮の言です。

いかがでしょうか?
逆説的で、どちらかと言えばネガティブでしょう?

東洋、とりわけ中国では表向き儒教的で政治的ポジティブな文化が花咲いているかのようですが(もちろん現今のそれは別)、実際はこうした道教的・隠者的な文化がその底辺を成しています。(陶淵明や李白と言った詩人に然りです)

さて、座右の銘が本気モードのそれであれば、これはもはや”座左の銘”ではないですか?

本気モードに真っ向から(ではなく、陰から)対抗していますね(笑)

「本気」とは、立身出世であり、名を成し功をとげるべく、覇者の心理です。
よくビジネス界(政財界も、、ああ)で、自らの理想の師として仰ぐ企業の創始者などの言葉がそうです。
それは、争いや闘争に行き着きます(見ていてお分かりですね)。

結局のところ、その「本気」になれなかった私は、いまだにこうして「人が本気にならないこと」をやってるわけです(´;ω;`)

しかも、それすら本気なのかどーなのかすら知りません。
(ガチョ~ン!←知ってる?



「本気」とは、怖い言葉です。
戦時下で、兵隊は本気でしょう?
何に対して?
敵を殺めることでしょう?
綺麗ごとを言っていたら殺されますからね。

ビジネスでも、商談の最前線のものは本気でしょう?
時に、社運すらかかっているんですから。

もし、それらが思うようにいかなかったとしても、

「何を言ってやがる、俺様が本気出したらそんなもんあっという間にひねりつぶしてくれるわ、グワッハッハッハ」

ということになりますでしょう?
何とかの遠吠えでしかないわけです。

じゃあ、そんなおっかない「本気」を避けてまったく逆な「気」というものはないのか?
ヤフー知恵袋などで調べてみますと、これがまた辛うじてあるんですね。

それは、「嘘気」(ウソケ)というらしい。
「本気じゃないよ、ウッソー」てなあんばい。

こうなってくると確かに「嘘八百専門家(笑)」としての私の出番ではないか?

「人が本気出すこと」が、前述の「立身出世」や「成功」やらに向けての「野心」「野望」「意欲」であるのに対して、「本気にならないこと」とは何だろう?
つまり、その「嘘気」とは何か?

それは「無駄」とか「無意味」とか「無価値」「無報酬」的な、あるいはそう見做しているものではないだろうか?

やっても到底叶いそうもないことだとか、やっても見返りがないもの、やりがいがないものに対して「本気モード」のスイッチは入らない。
しかし、入らないところに争いや闘争はない。
すなわち、皮肉なことに、平和はそこにある。

常に”嘘気”に本気になることは、まことに正しいことではないのか?
あなたがもし「平和」を望むのであれば、本気を出してはいけない。
のらりくらりしているようで、実はそこに大きな収穫があるのかもしれない。



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