砂を噛むよな味気ない

2025年3月27日

教育 雑感

t f B! P L

 


反逆児

ハナから結論や答えが出ている問題をなぜ解かなければならないのか?
しかも、その「問題」は自分の問題でもなく、また自分が関心を持っている問題でもない。

なぜ、この自分がそれを解かなければならないのか?
誰かが答えを出したんだからそれでいいじゃないか🤔

え? 答えが欲しいんではないんだと?
じゃあ、君はこの俺様に一体何を求めているんだ?
試しているのか?
何を試しているんだ?
なぜ、君に俺らは試されなくてはならないのか?

「問題」といっても、自分が解く過程でそれが間違いであるとか、別の導き方があるなどの発見の余地があるのであれば、それも意味があるのだろうが、そんなことはない。

答えはそこにあらかじめ用意されている。
それは絶対に間違いではないし、別の方法などどーでもよい。
間違っていなければそれでよしとされる。

そんなパズルのピースを当てはめるようなゲームで、首尾よくできればOK、そうでなければ何度でもできるまでやらされる。
退屈過ぎてあくびが出るじゃないか。

それを無視したり、(そのゲームから)離脱したりすれば落第だ。

そこでの「正解」の数を点数化して、今度はその人物を評価する。
評価とは、当然他者との比較であり、そのあとは選抜であり、優劣のレッテル張りだ。
こりゃ、体のいい優生学じゃあありゃせんか?

俺たちゃ、問題を出す側ではなく、出される側なんだってことを忘れちゃならない。
理系文系問わず、問題を出す側はその世界観を握っている。
その答えに合うのか、合わないのか。

合うものは正義。
合わないものは悪。

そのようにして俺たちゃ分別され、スタート時点から支配されてるのさ。




もし、あなたが教師であって、その教え子の中に、このような考えの持ち主がいたとして、あなたはそれをどう思いますか?
厄介ですか?
それとも・・。

  1. まったく同感、正しいと思う
  2. 言いたいことは分からなくはないが、あまりにも自分勝手で被害者意識が強い
  3. 何でも手あたり次第反抗すればいいということではない。少なくとも常識程度の知識は無理にでも教えるべきだし、またそれを身につけておかなければ、社会に出てから困るのは自分だ
  4. いわゆる「体制」側を悪と決めつけているが、そのおかげで生きていけるという感謝の念を忘れている。私たちは社会の一部としてその体制をさらにより良いものにしていかなければならない。それが私たちの責務だ

答えはありません。
あなたの答えが「答え」で、そこに正解不正解はありません。


順応者


実際には、こんなことを考えている学生などはいないにせよ、多感な青年時代に誰しもが経験する「社会──学校──家庭に対する反抗」の内訳は、その根っこを掘り下げれば、もしかしたらこれに似たり寄ったりだったのかもしれない。

なぜなら、全体的な抑圧の重みというものは半端なく大きいと思うからだ。

私たちは幼稚園──小中学校──高校──大学と、実にがっちりと骨の髄まで「教えられる側」「問題を出される側」といった「受け身の自分」であることを叩き込まれてきた。
それに疑問を差しはさむ余地がないくらいまでに・・。

そこにあるのは、

「〇〇しなくてはならない」
「○○でなければならない」

であり、それに適合するものを是とし、不適合を非とするよう教え込まれてきた。
多くの場合、これに両親という「家庭」が助長していただろう。

だから、DNA的に「おかしいな」と感じたとしても、それがどのようにおかしいのかをうまく説明できない。
だいいち、それに対して「おかしい」といえば、周辺環境からは白い目で見られたり、社会のレールから反れることを意味するのだと、薄々は感じているはずだ。
それも怖い。

そうなると、今度は当たり障りのない生き方を選ばざるを得なくなってくる。
長い物には巻かれろ式に、それまで尖がっていた神経をなだめすかし、少しづつ社会と、学校と、家庭と折り合いをつけることを学ぶ。

ここでの妥協は致命的なものである。
しかし皆が皆そうであることから次第にそうすることが正解であるかのように思い込む。
そうして彼は牙を落とす。

言うまでもなく、この世は奴隷として魂を売ったものが優遇され、生きやすいからだ。
奴隷とは反逆者の反対のものを言う。
それは順応者という名の実は服従者だ。
実に社会という得体の知れない司令塔は、そんな服従者を要求してくる。

そのためには、社会のそのような「規範(システム)」に馴染み、同じことをひねもす反復するようなマシーンになることを学ぶ。
そこでは疑うこと、考えることは厳禁だ。
それこそ、社会に対しての危険因子、謀反とみなされるからだ。

そうなると、私たちの頭脳というものは退化してゆく。
なるべく使わないことを強要されるのだから、それは当然のことだ。
そうして、次第に麻痺してゆく。
麻痺したものにとって、考えることは不要である。
他人の考えたことをトレースするか、または覚えればよい。

それができなければ「社会」に適合できない。
一方「社会」をリードする人材というのは、「社会」からリードしてもよいと認められた服従者である。
ゆめゆめ彼の意志で社会を牽引していると思うなかれ。

その「社会」とは一体何だろう?
その社会はそれほどまでに強制力を持ったものなのか?
それが当たり前の社会なのか?

冗談を言っちゃいけない。
普通に「社会」と言っているのは、単なる抽象概念である。
実体はない。
実際にいるのは、その概念を弄ぶ人間たちである。
「(自分たちの為に)そうあらねばならない」という生々しい欲望を、例えば「自由・平等・博愛」のような粉糖で覆い隠し、それを「社会」とか「社会通念」とかと呼んでいるまでだ。
(本当の社会というものは、それらの下でもがき苦しんでいる人々の集合体を言う。だから私たちはそれを放ってはおれない)

普通のことを普通に、客観的に見れば見るほど、それはジョージオーウェルの『1984』の世界のように見えてくる。
またはオルダスハクスリーの『素晴らしき新世界』か?

うすら寒い話ではないか?
現代社会での”満点人間”とは何か?
少なくとも、その意味での人間はことごとくAIに取って代わられるだろう。

後記


ここに挙げたことは、見方によっては現代社会の構図の一部を切り取って、いかにも針小棒大に論っているかのようでもあります。
書いている私自身ですら、そのようにも見えます。
しかし、よく考えてみますと──冷静になればなるほど──それらのまんざら否定できない面がどんどん湧いてくるようでもあります。

現代教育の全体像がそうであるとは言い切れないまでも、詰まるところそれが現今の「教育」であることは否定できませんね。
ゆえに、そこに改革が必要なのに、特にこの日本ではそうしたうねりが表立って見えてきません。

私は、この問題は、社会改革だのなんだのの前に最も重要なことに思えます。
でなければ、人間性はますます後退してゆくばかりだからです。

その「後退」は、いわゆるソシオパスのように際立ったものでなくとも、全体的な社会的な「無味乾燥さ」として現れてきています。

人物の扁平さ、そつのなさ、つまらなさと言ってしまえば顰蹙を買う言い方ですが、一般論的な、最大公約数的なことしか語らないそれにあるように思えます。

個人的なことなので、ほぼ詳細を語れないのが残念ですが、このところマクロビオティックがらみの投稿が重なり、若かりし日の思い出に耽っていました。
記事でも触れましたが、そこで出会った方々のほとんどはもはやこの世にいません。

その中で、ある方(私よりも先輩)がおり、40年も前から熱心にその道の研鑽に勤しんでおられ、時にそれが行き過ぎのきらいすらあった方です。
批判はありましたが、個人的には嫌いではない(今も)方だったので、マクロビを離れて久しい今もたまにどうしておられるのか気になってはおりました。

ご健在でした。
しかし、連絡を取る気にはなれなかったのです。
同氏の立ち上げたHPでの言は、申し訳ないですが、どこかの企業が社会に向けて体よく語っている代表者の通り一遍の「ご挨拶」でしかなかったからです。
私の眼には、彼は偉くなった? と同時にどうも何かに日和っているように映ったからです。

なぜにこのような「硬骨漢」というのか、ある型にとらわれてしまったものが多いのか?
彼以外にも、こういう特有の宗教観と言いますか倫理観で、身動きが取れなくなっている姿を散見します。
人物的に良い悪いではなく(そういう意味では私よりも賢く、良い人が多いものです)、そうした地平線からは未来は拓けてこないでしょう。

僭越なことながら、これも教育の弊害なのか、と自身の胸にも手を当てつつ考えた次第。




最後に、この一文の優れている点、もしくはバカバカしさとして秀でている点は、私たち教育を「受ける側」「受けてきた側」が、それを垂れてきた教育者、その機関を向こうに回して語っているところです。なんと痛快ではないか?
一介の無教養な平民?が、教育者に説教なんて前代未聞では💦(笑)
(↑自画自賛🤣)

そして、コレ↓
懐かしいですね。
え? ご存じない・・かもしれません。
なんせ、私よりも一世代前に流行った昭和フォークソングですから。

ぜひ、あなたも青春時代を思い出されてください(「オールナイトニッポン」とか「パックインミュージック」のような深夜放送と共に・)🥰





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