思い~込んだ~ら~ッと。
いや~、今朝は雪。
いいですね~。
どんどん降ってください。
雨に変わるとか。
大雨降ってください。
コンダラーの逆襲
突然ですが、コンダラーってご存じですか?
地方によってはコンダラって言うそうですが(ウソ)。
このネタは、以前に冗談めかしく投稿したことがありますが、実は非常に中身が濃いのでとりあげてみます。
正解は、コレ↓
![]() |
手動式整地ローラー=写真:Wikipedia |
ですね。
ご存じ、地ならし用の重いローラーですね。
校庭やテニスコートの片隅に置いてあったりするアレ。
『巨人の星』の星飛雄馬くんが、(一徹父さんの指示でしたっけ?)懸命にこれを引っ張っていましたっけねえ(ええ、分かりますよ、何のことかしら? そ、そんなの私知らないわ、いつの話?って言いたい気分を)。
その画像があまりに鮮明だったためか、テーマソング歌詞の
「思い~込んだ~ら~」が
「重い~コンダラー」に聞こえてしまいました、
というまあ「空耳アワー」ですね。
正式名称「手動式整地ローラー」が「コンダラー」にとって代わっちゃったという次第。
これは、何の前知識もなく、うちのかみさんがそういう話(自身が今の今までそう思っていた)をするもので、うっそでしょーと笑いつつググってみますと・・ええ? それこそ、うっそでしょーとばかりに同様の話が噴出、しかも、その器具自体が俗称であれ、「コンダラー」として認定(?)されていたとは・・マンデラエフェクトか?・・開いた口がふさがらなかったものです。
これ、思い込みの怖さその一です。
ところで、あの飛雄馬くんのローラーの扱いが実は大間違いなことをご存じでしたか?
しかも私も昔その大間違いをした記憶がうっすらとあるのに今気づいたんですが・・。
実は、あれは引っ張る(牽引する)ものではなく、前に押して使用するものだったのです‼
これであなたも一つ(今後おそらく活かされることのない知識の)お勉強になりました・・という話ではないのですが、先のWikiが、どーいうわけか執拗にそのことを記述しているもので、あえて付記しました(ところで、そのWikiからの上記写真のツールチップ=カーソルを当てた際の説明=が、「Kondara」となっていたのには泣けました)。
異~人さんに~連~れられて~
さあ、頭の中がコンダラがって来そうなので、次に行きます。
赤い靴~
履~いてた~
お~んな~のこ~
異人さんに連れられて行~っちゃっ~た
![]() |
横浜・山下公園の赤い靴像 |
人○○買を想起させる物悲しい歌ですね。
(「赤い靴」というのは、実はやばい象徴なんですが、今回はそれは置いときまして)
ここでの「異人さん」を数十年間「ひいじいさん」と思い込んでいた人は誰でしょうか?
っと、質問の振りの部分がずれちゃってますが、正解は・・そう、もちろんあの人です。
こちらは、ググっても似たような方はおられなさそうですので、難易度高めですね。
それにしても、横浜の波止場から「異人さん」に連れられてはじめて絵になる風景が、「ひいじいさん」とあっては、なんだか野良仕事のあと、孫に手を取られて歩く爺様の姿が目に浮かんできてかえってほほえましいんですが。
──で、あなたのお話の着地点は何ですか?
前回の《「で?」と「はい」》ではないですが、そんなお怒りの声も聞こえてきそうですが、もう一つ(思い出しちゃったんで)寄り道させてください。
もう30年以上も昔の話です。
母がまだ健在だった時分、夏休みかなんかで私の実家に帰っていた際に、まだ小さかった娘の一瞬の行動で、それまで開かなかった玉手箱が開陳されたということがありました。
それは、キッチンの流し台に20年以上も使用されなかった引き出しがあり、それを娘が何ごともなかったかのようにスーッと引き出した、というだけの話です。
問題は、その20年以上もその存在に気づかなかった母親の方で、彼女はそれが引き出せるものではないと頑なに思い込んでいたのです。
単なる意匠であると。
確かにその部分は薄く、今にして思えばカトラリーボックス的なしつらえになっていたもので、気づきにくいっちゃそうなんですが、何かの拍子に引っ張ってみてもよさそうなものではないですか?
20年以上というのは重みがありすぎです。
「右向け~右」といえば、そうするのではなく、絶対に左を向かない頑なさ、というか。
自己、この未知なるもの
さて、いかがでしょうか?
ここに挙げたことは、「思い込み」という魔法です。
前に書いたように、それは呪文であり、呪術とも言えます。
おそらくは、あなたにもそのたぐいの話はたくさんあるに違いありません。
人間にとって、この「思い込み」「先入観」というものは、まことに度し難いものではありませんか?
それがあまりにも多いことから、人生とは先入観を言うのでは? と思えるほどです。
大きなところから言えば、地平線や水平線のかなたに景物がやがて消えてゆくことから、なーるほど、地球ってもんはひらったいもんで、あの先は崖になってるに違いない、落っこちねーようにしねーとな、くわばらくわばら、などと思っても不思議ではない(なぜか噺家口調)。
それでなくても、こうして普通に生活していて、風がホホを打つことはあっても、いきなり地面がとんでもないスピードで動き出す、なーんてこたー、このかたいっぺんもねーってことは、地球が動いたり回ったりしてるなんざ、夢にも思いませんでして(どーしてもそっちへもっていこうとしている)。
私は、この「私」という自己はその先入観、思い込み、すなわち固定化したイメージであると見ています。
しかし、自己ってあるじゃないか?
ですが、それではなく、その説明、それを観ている側のイメージを言っています(なぜなら、それを通常「自己」と言っているからです)。
それ自体が、これまでの経験や様々な記憶などで錯覚、思い入れ、とらわれ、夢想、自己美化、自己陶酔、自己神化、自己嫌悪、後悔、希望、喜び、悲しみ、苦しみ、笑いなど無数に描かれたイメージがごったまぜになったものだと思うのです。
だから、ひとから「○○さんって○○なのね」とか言われると、そこに煮え切らないものが残るのです。
「それもあるけれど、それは自分の一部なんだけどなー」
思って当然なわけです。
なぜなら、それら意識の集合体を「自分」と称しているからです。
その一部をピックアップしたものがイコール自己なわけがありません。
見る者は見られるものです。
そのようにしてつくられた複雑な様々なイメージの集合体を、
今度は見ている者がいます。
そのものにはそのようなイメージは一切ありません。
なにもありません。
では、そのものはいったい誰なんでしょうか?
何処にいるのでしょう?
※これらは、あくまでも私のイメージです(笑)
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