私は知っていることしか知らない。
私は知っていることしか知らない。
これは由々しき問題ではないか?
なんだかそれは、「向いた方しか向かない」というのと、ニュアンス的に似ている。
知っている世界というもの自体限定的だから、それもあながち中らずと雖も遠からずだろう。
向いた方しか向かない私。
要は、私は部分的であり、半端ものであり、ガラクタである。
そんな人間の考察は、いつもあてずっぽうであり、決して全体を俯瞰することなどかなわないはずではないか。
それでいて、いっぱしの口を叩く。
あわよくば論理が成り立ってしまう。
おそろしい話である。
「これから知るであろう」何かを引き寄せる。
しかし、半端ものにもそれなりの言い分はある。
どうか聞いてくれ。
どうしてそれはなかなかに大したものである。
その「知っていること」といったら、大ピラミッドの石の数くらいある。
重たくて、それはもう、うるさいくらいだ。
知りたくもないのに、知ってしまったことだって山ほどある。
それらは向こうからやって来て、有無を言わさず耳元で怒鳴ったり囁いたりする。
いやはやこうして歩いていても、頭は「知っていること」の重圧で、足元が躓きそうになるじゃないか。
「知りたい」という意志がそこに働いているのかどーかは知らない。またその意志が果たして神聖なものなのかどーかさえ知らない。
いやいや、それは単純な物理的な反応だろう。
さながら磁石のように、「いまだ知らない」私が、「これから知るであろう」何かを引き寄せる。
脳内ニューロンの最先端部の樹状突起(シナプス)が、”未知との遭遇”を果たすようにだ。
ということは、私は過去である。
「知る」という行為は何か「知性」と関連するのだろうか?
多くを知ることが、イコール知性なんだろうか?
いや、こうして見てみると、それはむしろ「貪欲」と近似性があるように見える。
私は「知識」という木の実をむさぼっているだけではないのだろうか?
もしそうであれば、あさましい貪欲が見境なく吸引する知識を打ち直して、「知性」という上品でノーブルな”衣装”にしているまでのことではないか?
私は「既知」を持っているが、「未知」は持てない。
未知と言うのは、私がその億兆万分の一をこれから持つかもしれない何かだ。
すなわち、既知が過去であるのに対して、未知は未来だ。
ということは、私は過去である。
既知とは私を一旦通過したものだから、それはすでに中古品だ。
100年経てばアンティークとしての価値が生まれるくらいが関の山だ。
未来を食って、たちまちそれを過去に退けてしまう無駄飯食い
それが私である。
私は既知の世界で生きている
しかしよく考えて見給え。
おまえが「未知」であるとするそれが、
果たして本当に「未知」なことなのだろうか?
いやいやそんなことはない。
それはすでに知られたものではなかったか?
最初から私に与えられているフィールドは、「知られたもの」「既知」の世界だったではないか?
ここでの「未知」とは、単に私の個人的な事情で「知らなかった」だけのものであり、世界ではすでに知られたものじゃあなかったか?
世界が初めから既知であったとして、
つまり過去のものであったとして、
私は生きていけるだろうか?
その道を右に曲がれば猛獣がいる。
左に曲がれば愛らしい仔犬がいる。
あらかじめそれを知っていて、
誰一人として人生右に曲がるまい?
右に左にGO! STOP!
「いえ、それは間違いです」
「そう、大変よくできました」
という定められた人生の
どこに喜びを見出せるというのか。
しかしまた、知りたいという人類数万年来の宿願がみごとにはじき返されて、
ごくまれに、心ある人にのみ、その一端を覗かせる類の「未知」もある。
真、善、美、愛、自由・・・それら無量の奥行を持ったテーマがそうである。
これらは、依然として未知のまま、手つかずだ。
これぞ本物の「未知」ではないか?
それを知りたいのか?
さらなる謎を暴きたいのか?
知ることは不幸である。
ここで振り返ってみよう。
果たして知っていることが私を幸せに導いたのか?
いや、大目に見てもそんなことはない。
むしろ知ったことでにわかに愕然となり、厭世的になりはしなかったか?
知らないほうが余程賢明だ。
知らぬが仏である。
幸福は知らないところにある。
自由が、制限された既知の地平線に決して見いだせないのは、火を見るよりも明らかなことではないか?
だから、幸福の花はそんな狭い大地に咲かない。
「いまだ知らないこと」が、この地上で死んだ人間の数くらいあるとして、「知っていること」は、いま生きている人間の数くらいのものか?
しかも、私が死ねば、おそらくはその「知っていること」にせよ、きれいさっぱり消えてゆく。いや、消えないにしてももはや用はない。
大脳がないのだから考えることはしまい。
ということは、私が「知っている」ということが役に立つのは長くてもたかだか100年。
有効期限付きの、しかも部分的な「既知」ではないか?
知識にところを得させる
英単語をいくらたくさん知っているかと言って、それで会話ができるわけではない。
しかし、単語(言語)が無くして会話は出来ない。
知識とは、一度「言語」に変換されたシンボルだ。
つまり、「そのもの」ではなく、そのものを表す概念に過ぎない。
それがそこらへんにばら撒かれたとすれば、それは単なる混乱に過ぎない。
また、それがあらぬ場所にあっても同様だ。
だから、この世界はカオスなのではないか?
やがて、知識は人の手を完全に離れるだろう。
AI云々の前に、すでにPCやスマホがそれを物語っている。
知識は物理的であって、物理的頭脳がテクノロジーやら現今の世界の進展を推し進めてきた。
それは、当然AIの方が人間を上回るだろう。
いや、実体はすでにそうある。
AGIによるシンギュラリティが巷間を震撼とさせているが、それは訪れるだろう。
しかし、それが書き換えるのはすべて「過去」であって、未来は変わらない。
それがいかさかスピリチュアルの面まで凌駕するといっても、それは物理的な次元での「スピリチュアル」を一歩も出ない。
だから、トランスヒューマニズムなどというハリボテ的な発想しかできない。
私たちが「過去」に隷属している限り、
つまり依然として「自我」「エゴイズム」を自己としている限り、
淘汰されるのはそれらであって、あなたもわたしもそのものは不変であろう。
付録《悩み》
悩むという所為も、知ることを起点にしています。
知ることは知らなかったことを起点にしています。
ということは、もともと「悩み」というものは存在しません。
そこには当然時間の経緯があります。
知ることを起点にして、幾日も幾月も「考えて」いるからです。
大概、人間のやることはそうですね。
ところで、その「悩み」の内容です。
何を悩んでいるのか、
何に悩んでいるのか。
私が現役だった時分、よく職場の友人らに嘯いていた文句。
「地球が先か俺が先か」
「どーせなら地球を憂いていたいよ」(小さな仕事のごたごたで腐心していた自分や友らを戯画化して)
さて、世の中には、地獄のような家庭環境に生まれ、まだ物心がつくかつかないうちに、そこで有無を言わさず悪夢のような日々を送った、などという方も急増しているようです。
家庭内暴力(DV)や虐待などです。
これでは、人格形成もアイデンティティもへったくれもありませんね。
そこでは「悩む」などという生温い時間すら与えられないでしょう。
それは、暴力が日常化した傷害罪、ひいては殺人罪だからです。
こうした人倫の荒廃、腐敗、狂気は、悩むまでもなく一掃されなければなりません。
あなたはどうすべきとお思いですか?
なぜ、そうした”人でなし”が増えたのか、その原因です。
対処ではない。
対処とはことが起きてからの事後処置だからです。
ことが起きない、二度と起きない、起きる原因もない世界とは、、です。
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