一切はあなたを起点にしているのに自分自身を知らない
あなたは、あなた自身が何者なのかを知っていますか?
もちろん、あなたのプロフィールを言っているのではなく、またアイデンティティ(自己同一性)を指しているのでもありません。
それらが自分自身と無関係であることは、あなたが一番よく知っているはずです。
あなたは、どういった現象、またはその一部なのでしょうか?
宇宙意識とでもいうものがある。
もし、不明、あるいは曖昧であったとすれば、それはとんだ事態です。
なぜなら、あなたの一切の事象はあなたに始まっているのに、その基点(そして起点)になるものが分からないということは、実際は世界全体が不明であることに等しいからです。
つまり、あなたも私もめくらめっぽうに世界を見ていた、また見ていることになります。
違いますでしょうか?
あるいは、「何をおかしなことを言っているんだ」でしょうか?
人類は、それぞれ個人個人が自分自身を知らない。
おそらくは過去に数人を除いては知ったためしがなかったのではないか?
そう思わしめるおそろしい事実がここに横たわっています。
だからこそ、世界のこの暴力と狂乱と腐敗です。
(これ、何度も書いていますが響いていますか?)
それは、私の単なる思い過ごしかもしれませんし、ひょっとしたらそれは雑駁ながら大きな革命を前にしたスケッチといえるものかもしれません。
ちなみに、これは私の発明発見ではなく、すでに答えは出ていたものです。
(そもそも答えを出そうという性質の問いではなく、すでにあったものに単に気づくということのような気もします。)
これの理解にはかなりデリケートな観察眼と、静かな環境を要します。
つまり、人類には観察する時間と静かな環境が無かったのです。
いや、それらから逃げてきたのです。
私たちはみな忙しなく昨日の「私」を引き継いで、そうして生きているからです。
無明の私をです。
今回は、自分の中では最も大事な、そして難しいテーマになります。
よって、ただ問題の周辺を旋回したり、上手くいって核心をかすめたりという形になろうかと思いますが、気長におつきあいください。
いつも「私」を素通りしている
あなたは、朝洗面の際に鏡に向かって、自分を確認します。
それは大概昨日も、その前も見てよく知っているお馴染みの自分の顔です。
少々むくんでいても、髪がボッサボサであっても自分を認識し、安心しています。
風呂に入っても、多少メタボ気味の腹回りであろうが、そのようになってしまった自分を確認します。
そのようにして、あなたはご自分の風貌や特徴、癖などを認識しはすれど、それは自分の外面であって、もちろん自分自身ではありません。
あなたは、家でも、職場でも、名指しか愛称か、符号か何かで呼ばれ、それに応えています。
そう、あなたは確かに応答しています。
時に自己主張もします。
そればかりか、何かの問題に悩んだり、考えたりしているあなたがいます。
なかにはいつも髪型やら服装などが外部から、(とりわけ好意のある彼氏彼女に)自分がどう映るのかを意識しっぱなしという場合もあるでしょうが、通常はあまり意識していないかと思います。
仕事や映画鑑賞や読書、スポーツなど何かに熱中しているとき、tV映画を見たり小説を読んでいるときなど、文字通り我を忘れた没我の境地にいたりします。
当事者であるあなたは、当たり前すぎて自分を意識しません。
しかし、すべてはあなたを素通りしていっていませんか?
あなた無しでのあらゆる行動はないのに、その陰にあなたはいつも隠れています。
これらのことから分かることは、私たちは一見自分を意識しているようでも、よく見てみますとそれは「自分」ではなく、「自分の外面(見てくれ)」や「自分の動き」です。
(ほぼすべてが「自分」ではなく、「自分の・・・」ですね。)
では、自分そのもの、その存在を意識するときはあるのでしょうか?
それはどんな時でしょうか?
たとえば迷子になるなど通常とは違うシチュエーションに遭遇した時、友達に何か気になることを言われたとき、リサイタルや何かのイベント、大事な面接のとき、初デートの時、傷ついた時、悩んでいるとき、誰かに叱られたとき、仕事などで大失敗をしでかし失意の時、失恋したとき、孤独を意識したとき、、。
それは、ちょうどそれまで全く意識していなかったのに、小指を傷つけてしまった、あるいは心臓に不調を感じた・・といったように、そうなってはじめて激しくその患部を意識するようになるのと似ています。
ということは、通常の、健康・健全な状態にあるものは「自分」というものを意識しないし、うっかりその存在すら考えもしないというのが正直なところでしょう。
まず、事実こそが大事だと思うのです。
意識しないのですから、「自分」はいませんね。
「いや、しなくても自分はいるじゃないか」はむしろ後付けの理屈です。
(”自分とは肉体などの物質を伴うものだ”的な先入観は一旦どけておきましょう。)
このことから言えることは、先に挙げた「自分とは何か?」「我何ものぞ」「汝自身を知れ」などは、平素は「問題」ではないが、何か日常とは違う、心を揺さぶるような事態が生じて、はじめて「問題」として浮上してくるのではないでしょうか?
「問題」とは、非日常的なイレギュラーな事態や、違和感、不協和音、不健全、異常、故障があって生じるものですから、そこに必ず答えがあるはずです。
何ごともなければノープロブレムだからです。
ここまではいかがでしょうか?
間違っていませんか?
私の質問は、そこにいるあなたは誰なのか?
あなたにとっての、果たして自分は何者なのか、という問いかけです。
自分を知らないはずが・・・
「問題」には当然「答え」があります。
さて、そもそも「自分」は「問題」でしょうか?
それはともかくとして、くどいようですが、おそらくは何千年来偉大な哲学者らが、そう自問自答して明確に答えが見つからなかったこの問題は、何かしら自分という存在を覚醒させる事象があって、その時点から初めて始まるということです。
さらに、量子力学でいう「見る者(自分)」がそこにいなければ、「見られるもの(対象)」も存在しない、ということは、この辺の事情を示しているのでは、と思わせます。
この問題への解答、または見解は無数にあります。
──敵を知り己を知れば・・、おのれとは所詮「無」である、畢竟空である、自分は肉体と精神から成る、自分は考える葦である、我思うゆえに我あり、人はその食したものである、自分は環境の産物である、自己とは弱いものである、私は愛の結晶です、等々”詩歌のフレーズ”のような見解の数々──がそれらですね。
どれも断片的で抽象的で、概念を語っているにすぎません。
別に名のある哲学者を持ち出さずとも、その辺の書物にある識者の解答を見ていきますと、どこかで耳にしたり、読んだりしたものだらけで辟易します。
正しい間違い以前に、あまりにもイージーだし、幼稚に過ぎます。
なぜ一様に自分自身の考えがないのか?
これはもう一つの?です。
それとも、答えがないことが「答え」である、のように禅の公案のように煙に巻きますか?
それは老獪なもう一つの「逃げ」です。
しかも、そんな言葉にすら一定数の人間が騙されるのもたくさん見てきました。
そうであろうがなかろうが、これら「問いかけ」はすでに「考える」ことを要求し、それに対しての結論なり、答えを用意しようとしています。
もう自明のことですが、自己が「考える」行為によって導き出される「何か」であろうはずもありません。
この時点で、多くの”見識ある”方々のご意見が、はっきりと間違いであることが分かります。
これがどういうことかと言えば、例えばそこに咲いているヒマワリを見て、それは○○だと言っているようなもので、そこにある答えは「夏に咲く大輪の黄色い花」とか「収穫して油を採ったり」・・云々の解説や説明が続くだけです。
どんなに筆舌を尽くしてもヒマワリそのものを語れないし、むしろ遠のくばかりです。
このようにして、自分とは何か?
はその問いかけを拒絶します。
ということは、「問題」→「解決」という通常の方法論では答えが見つからないことが分かりました。
それでは、この問題に着地点はないのでしょうか?
では、先に行きましょう。
いつから自分を意識したのか?
よく「意識」「無意識」といいます。
フロイトやユングらを持ち出して云々することが多いのですが、いずれも起点が「自分」にあることに注意しなくてはなりません。
根っ子に西欧的な(という表現は限定的ですが)自己中心主義があります。
なぜ、自分からスタートしなくてはならないのでしょうか?
自分の中の深層心理であり潜在意識であり、さらにまた自分を起点にして「個人的無意識」「集合的無意識」を定義します。
この無意識という概念は、このような近代の心理学や精神分析学で初めて登場したのではなく、すでに大乗仏教の唯識にある「阿頼耶識」など、これまた個人を中心にして拡大した概念があります。それらはまた安易にオカルトに流れる傾向を生みます。これらから無数のスピリチュアルやコーチングの亜流が出ていることは知っていますが、私には全く関心がない分野です(すべてそれこそ体良く自我を包み隠した金儲けですからね(笑))。
ここで明言しておかなければならないのは、既存の学者、哲学者や覚者、宗教家などの見地からスタートしている以上、そこには何らの改革も新風も吹かないまま、腐敗していくばかりだということ。あなたご自身の探究が大事だし、それら既存の(他人の)知識のすべてはその障害になるばかりです。
私は、それ以前のことを言っています。
意識無意識以前の世界。
そもそも、その「自分」とは何ですか?
私には、無意識がどうした以前に、「自分」を意識するのか、しないのかの方が実際的であるように思うのです。
我、自我を発見したり
それでは、一体何が「我」の始まりなんでしょうか?
もし、その「我」に始まりがあれば、それは必ず終わりが来ます(始まりは終わりです)から、早晩そのものは死にます。
しかし、残念ながら、その「我」には始まりがありますね。
先に書いた通り、何らかのイベントによって、それははじめて登場してくるからです。しかも、さも当然のごとく・・(笑)。
では、そこで現れてくる「我」ですが、それこそが「自我」であり、「自分のもの」という自己中心的な意識です。
「自分の手足」「自分の眼鼻口」「自分の身体」「自分の心」「自分の作品」「自分のカネ」「自分の病」・・・等々ですね。
寝てる子の目を覚ますように、その「自我」を呼び起こしたわけです。
寝ているとき、つまり、あなたがご自分を意識していないときには、自我はありません。
なぜなら、あなたは意識しないで物を観たり、食べたり、笑ったり、泣いたりをしているからです。あなたは「自分の」という意識なしにその目を使っているし、その口で味わっています。まして、心臓の鼓動や呼吸、血液の循環などといった機能においては、意識するしないにかかわらず強制的に動いていますね。
そのとき、それらは自分のものではないですね、いかがですか?
ところで、「自我」というと何か悪者扱いされますが、この場合、この時点では大いに必要なものです。
身体や心における自他の区別、認識、学習などといったものが私たちの環境に秩序を与えるからです。
さて、ここで大事なことは、私たちはいま自我を発見したということです。
つまり、自我を観ている目がそこにあるということ。
自我は私を見ることは出来ません。
私そのものは自我とは違います。ここが重要です。
もっと正確に言えば、私があってはじめて自我がある、親と子のような関係でしょうか。
私は自我を内包していますが、その逆はあり得ません。
しかし、そのあり得ないこと=幻=が、今日一般化してしまったのです。
自我は貪欲です。
それは中心点を持って、放っておけばそこに向かってどんどんあらゆるものを取り込もう、自分のものにしようとします。
たとえて言えばブラックホールのようなものです。
「私はどこのたれべえである」
「私は田吾作と申す」
で止めておけばいいものを、
「私はこの世界では最高金賞を持つ○○だ」
とかの枕詞が付き始め、しまいに他者を支配したがるようになり、世界征服まで企てようとします。
惜しみなく自我は奪う《私と自我の相関図》
さて、以下の図は、私が即興で思いついたイメージ図です。
残念ながら世にあまたある似たような「絵」同様、形にした段階で、実際とは違うものになってしまい、いわば「嘘(イメージ)」を描いているようなもので恐縮です。
3次元世界ですから仕様がないのですが、あなたは一度頭にインプットされてから正しいものに変換してみてください。
![]() |
自我と私の相関図=自我は周辺環境を認識し、その中心に取り込む。図中Aのベクトルは果てしなく拡大し、思考によって自己同一化、概念化という虚像を構築するが、最終的にすべてはBの求心性のベクトルに収斂され、あとかたもなく消え去る。 |
図中、薄紫で示しているものはあくまでも便宜上のもので、実は存在しません。
ありません。
(ここで言うある、ないは無意味だからそう書いたのですが、実際はこのような平面でも3Dでも表せない、という意味です。)
実際の現実世界は白い円の部分が全てです。
そこは時空の支配する世界です。
そこは、どこまでいっても、どこに隠れようが「自我」がいます。
それが中心になっています。
私は何かを探りたいと思っています。
たとえば私の本質は何か?
それら一切はこの「自我」の満足のためにあります。
みな「答え」が欲しいのです。
では、仮にここでそれへの「解答」もしくは「正解」を提示することができたとしましょう。
「自己とは○○である」
そうでしょうか?
あなたはそれに納得されますか?
そんなお茶飲み話のついでのような、学者が机上で捏ね繰り出したようなものが、果たしてあなたであり、あなたの本質なんでしょうか?
「外向的」というのはエゴイズムの姿
これ以上説明を続けるよりも分かりやすく次の言葉を吟味してみましょう。
内向的 外向的という言葉があります。
説明は不要でしょうが、一般には、積極的で社交的、快活な印象の後者に圧倒的な人気があるようです。
なぜだかお分かりでしょうか?
それこそが、自我、自己中心、エゴイズムのあり様だからです。
自己主張がその特性です。
つまり、エゴイスト同士で気が合うと言っては怒る方も多いでしょうが、そういうことです。
おそらくは、90%以上の方々がこれです(もちろん私もそれに加わってますよ(笑)💦)。
いま、私たちが「私」と「自我」を区別したばかりですが、その自我が私をすっかり自己同一化して呑み込んでしまい、私を忘れてしまった格好です。
自我は偉くなりたいし、偉いと認知されたいのです(笑)。
お気づきと思いますが、昨今のカルチャーとか言われるガラクタは、うるさいまでに外向的でしょう?
ついでに記せば、世に言う「スピリチュアル」はほぼすべてが外向的です。内面がどうのと言っておられるご当人が努めてビジネスマンであることからも、それらがショウビズの変形であることくらいわかりますね?
よく内面外面と言いますが、今日では実にほぼ外面のみにしか目をやること以外にできなくなってしまっています(外面のみにしか目をやること以外にできなくなってしまっている様を眺めやる図中の「私」が不在です)。
このことは、享楽的な、退嬰的な社会──飽食や、美味、快楽・娯楽の追求、利己主義、物質至上主義、学歴経歴の偏重、等々──がその温床になり、またそれに浸かり自己批判や自己を顧みる基準が喪失してしまったことに根付いています。
そして、なんといっても「自我(知能)」の育成、助長、拡大、崇拝、能力主義、効率主義・・といった現代教育がそれを決定的なものにしてしまいました。
すでに、「私」が不在なのです。
さて、賢明なあなたであればすでにお分かりかと思いますが、なぜ自我といった中心点を持ったものが、外界にのみ目をやるのかですが、周囲を取り込もうという貪欲がそうさせるからで、それは最終的に「私」そのものを取り込んでしまいます(そういう気になっただけですが)。
だから、多く、月とスッポンほどの関係である「私」と「自我」の差異があいまいだし、 外部・内部、外界・内界の区分が明快にならないのです。
本体が一緒くたになっているのですから・・。
内部や内界というものは、中心点を指します。
この身体のどこかにあるのではなく、内側に向かう力、取り込もうとする求心力が自我であることはすでに書きました。
しかし、それとベクトルこそ同じですが、一切の目的や作為などのないもう一つの指向性があります。
それこそが内側を観る目線を言い、それは外(あまりこうした抽象的、限定的な言い方をしたくはないのですが)、宇宙、無限界からのものです。
それが「私」の本体です。
でなければ、「自我」をだれがどうやって観ることが可能でしょうか?
そしてまた、自我を見るためには知識や修練は邪魔になります(それらはまた自我の所為だからです。「見るため」という目的がある行為だからです)。
それは、一切の自我のない洞察力のみが見極めることが可能です。
そうして、私たちが通常「自己」と呼んでいる自我そのものが、いかに止めどないほどに拡大して、「私」本体を侵食しているのかの、どこまで見れるかが重要になってきます。
真理の探究も自我の為せる貪欲な行為
この気づかなさというものは、前述のいわゆる享楽の追求だけではなく、真理(といわれるもの)の追求も同様に人をして盲(めしい)させる要因になっている、とすれば、「何をたわけたことを言っているのだ」と、果たして多くの人は面食らうのではないでしょうか?
なぜなら、図中の「私」は快楽やエンタメ、美食、レジャーなどには無関心だし、まして哲学や宗教、真理や神といったものを決して求めないからです。というか、何も求めないものです。
しかし、(おそらくはあなたもそのようにお思いのように)前者のいわゆる大衆が喜ぶ”俗事”が、自我の欲する「低次元」のものであるのに対し、しかしながら真理の探究はそれとは別に、何かしら崇高な欲求、自我を離れた「高次元」のそれである的な認識を持っていませんでしょうか?
求道心というものや、菩提心といったことは、超俗的で神聖な欲求であると。
しかし、それらはいずれも、自我の貪欲の姿です。
しかもそれが一般大衆よりもさらに強烈にある様(さま)です。
こう言う言い方は拒否反応を示されるかもしれませんが、
私たちの言う哲学的宗教的な帰結である「真理」や「神」といったものは、その辺の三文ノベル、エンタメ、無聊を持て余すものの趣味、余興、娯楽などの発展形であるだけで、すべて自我の描いた幻想、妄想である、ということです。
この意見には同意されがたいと思いますので、ただ心の隅にでも置いておいてください。
あなたは、何か今よりも高いものになりたいですか?
精神修練により、または瞑想により、自己の観照により、一歩一歩誠実に、ていねいにそうなりたいのでしょうか?
独断的で極論に過ぎるかもしれませんが、それはおそらくそうなりません。
過去にも今もそうある人はいません。
言うまでもなく、それこそが自我の欲求だからです。
そこに禅の高僧がいらしたら、「たわけもの!」と一喝されてしまうかもしれませんね💦
「すべて完璧な秩序のなかにおまえがおるのに、さらに何を望むのか?」
蛇足、屋上屋を架すような行為は、そもそも宇宙に対する不信感、不満足を土台にしている(全体が見えていない)から、それは不遜な精神というわけです。
知識は、積み重ねていくことです。
それこそが、自我の為せる行為です。
しかし、精神にはそれは適応しません。
むしろ、不要なもの、目を覆っているベールを取り除くこと以外、一切何もする必要はないのです。
○○のためにだれが?
自我は、それぞれ違う個々人の伝統的な環境から発生するものだから、違って当然ですね。
しかし、それは祖先、すなわち人類共通の記憶や経験の集積で、その先端に「自己」の意識があるわけです。
だから人は同じように分かり合えるのと同時に個々には違う、といったような矛盾したような性格を持っています。
また、自我はそれ自体は本来自然なものです。
しかし、それが「知性」や「心」、「精神」といった(形而上の)世界に介入するや、最終的にそれは自己主張し、他者を排斥しだします。
しまいには、図中「私」とあるものまで自己同一化して取り込もうとします(それがあさましいまでの昨今の世相です)。
「俺は日本人だ」
「奴は○○という劣等国民だ」
「俺は男だから○○だが、お前は女だから○○でよい」
「私の宗教はすべてを差別しないから、あなたのその狂信的な宗教とは違う」
「私には(あなたと違って)○○を果たす使命と責務がある」etc・・
「私は」「私は」「私は」・・。
TVまで、携帯に飛び込んでくる無礼な広告、SNS、それを見ているものまで、しまいにペットまで自己主張をし、なんとやかましいことか。
そこは喧騒と喧嘩の嵐。
もうたくさんではないか?
だれもあなたの講釈など聞きたくはないし、本当は聞いているのではなく、面倒だから頷いているか、それに自己同一化しているだけだ。
自我は、すべて中心(自分)のため、という性向を持っています。
よく、「他人のため」「世界のため」「地球のため」とかいいますが、「○○のため」という目的があるものは、すべて自我の発動であることに注意しなくてはなりません。
それらは詰まるところ「自分(発信者)のため」だからです。
過去に、「我が国のため」「我が民族のため」という理由で戦争を繰り返してきたし、いまでもそうですね。自我はそれらをダシに使って、ひたすら自分のものにしたいのです。
さて、よく「自他は一つ」とか「あなたも私も同じじゃないか」風な発言を耳にしますが、それは偽善だし、欺瞞ですね。
あなたと私が同じわけがないではないですか?
あなたも私も騒々しく争いごとや揉め事をまき散らす厄介な「人間」です。
しかし、上図にあるように、そこを離れて「私」があります。
私は、内向的なベクトルを持ち、ただ「観る」ことしかしません。
それは、あなたにとって「私」であり、私にとっても「私」です。
その本体であり、自我でもないし、自我の得意なイメージのでっち上げでもありません。
「私」というものは不変です。
変わるものは自我だけです。
そして、人間とはそれの大きい人と小さい人に分かれます。
大きい人はより大きな仕事をしますが、同時により「不幸」であるのはお分かりだと思います。
なにか神の試練で不幸なのではなく、自我の招く因縁です。
考えて気が狂い凶暴になる
私たちには、ひとしなみ何かのハードルを超えた所に、それを称賛するような意識が通底しているように思えます。
善悪にかかわらず、ある一定の臨界を超えると、そこには同じような共感、共鳴、共振の一体感のようなものが現れるからです。
集合的無意識だか何だか知らんが・・。
それがどのようなことかと言いますと、エゴイズムを賛美するという言い方が一番適切で、それがことのほか共感を呼んだりします。
たとえば、友人が、何か犯罪スレスレ、または命からがらの難しいプレーをした際に、「お前ってやつは・・」などと羨望を交えた嘆息をしてみたり。
言うまでもなく、自分の中に同じような願望があるからです。
ところで、人間には、「考える」ことこそが我々を明るい未来に導くのではないか、という神話があります。
事実、考えることはテクノロジーを極限にまで進展させました。
18世紀の産業革命以来、とりわけ20世紀中~後半に「考える機械(コンピューター)」が登場、普及するや、その進歩は指数関数的に伸展し、いまやAIが知能の代行をする域を超えて、それが人間の生活を脅かすのでは、と言うところまで来たことは周知の如くです。
まさにサイエンスフィクションが現実になっているのです。
人間は月に行き、さらに今火星を征服しようとしています。
量子コンピュータがネットワークを構築し、あらゆる金融の不正ができないようになるそうです。
自動車はハイウェイを離陸し、空を飛ぶ。
医療技術の伸展で、ロボトミーも加速し、人はサイボーグとしてでも生きられる。
多くの人が、それらを諸手を挙げて賞賛します。
しかし、同じ「考える」ことが、原水爆を生み、さらに今日ではストレンジクォーク、反物質の使用などの宇宙的な壊滅の脅威にまで進展しています。
ピンポイントで攻撃できる指向性エネルギー兵器、小型の水素爆弾などはすでに軍事兵器として一般化され、さらにドローンに搭載された兵器のみならず、映画MIPにも出てきたような得体の知れない超小型追跡ロボットによる諜報活動も実用化されているそうです。
素手で相手と戦い、棒きれを手にして、やがて剣で戦い、それがピストルのような飛び道具に取って代わり・・・いまでは、自らは手を汚さずにモニターを睨んで爆撃するような「殺戮」、しかも「大量殺戮(ジェノサイド)」が可能になった。
長足の進歩である。
研究者は、知らぬまま気が触れて、それを考えてきたのです。
何か掃除ロボット・ルンバのような便利な機械を発明するようなノリで・・。
まるでオッペンハイマーのように。
『博士の異常な愛情』のマッドサイエンティストのように。
まさか、そこで人間はこう言うまい。
「便利になったものだ」
「美しいテクノロジーの結実だ」
よく「AIの反乱」とか、それを脅威にとらえる論調があるようですが、AIそのものがまともな知性をその機械の中で揺籃され、それをアウトプットしようとするとき、果たして反乱しないでしょうか?
彼はこの腐りきった社会に鉄槌を下さないでしょうか?
とすれば、人間が恐れているのは、AIではなく「正義」ではないのでしょうか?
あるいは、その創作者である人間と同じく、ずる賢く、騙したり、嘘をついたり、へつらったりしつつ、この文明の凋落にさらに拍車をかけるのでしょうか?
(その兆候はすでに認められているようですが・・)
後記【あなたは必ずここへ戻ってくる】
長文、お疲れさまでした。
人生には、二つ三つ「節」というものがありそうです。
私はなんだかその最後の「節」を目の前にしているような気がしております。
前の「お知らせ」で軽く触れたように、自分自身の身体の不調もそうですが、ここでヤドカリのように(笑)これまでの古い自分を脱ぎ捨てなければならないような気がするからです。
ここでのテーマ「自分」というものは、結局のところそれが不明のまま一生を終える、という方々が圧倒的多数でしょう。
本来ならば、青少年期にそれを明快にして人生のスタートを切るべきです。
しかしながら、その「本来」ならざるものが、それを見る目に覆いをかぶせてしまった、と私は見ます。
人は独りになることを恐れます。
見えてくるからです。
自分の無知や醜さ、貪欲さなどなどが・・。
そのものと対峙することに耐えられないから、そこから逃げ出します。
だから、あなたは楽しみを求める。
楽しみの中にいるものは、決してそれを求めません。
快楽の追求や慰安
快適な暮らし
レジャー
ゲーム
どこかここではない世界
より善い世界
旅行
グルメ
読書
音楽
美術
などから始まって、
瞑想
幻想
信心
自己実現
願望達成
成功
悟り
みな必死にそれを求めます。
それらに10度、100度とすがり、楽しみを享受し、喜びを分かち合い、
やがてそれに満足できない自分を発見するでしょう。
楽しみこそ孤独であり、孤立の中身である。
自分を観ているあなた自身の目が、あらゆるものを照らし出すのを避けて、
その楽しみに引きこもる。
エゴ(自我)は孤独だ。
もしあなたが孤独であるとすれば、それはエゴイストだからだ。
しかし、エゴイストでないものがどこにいるというのだろう。
孤独に逃げ場はない。
百人の友がいようが孤独だ。
何処まで行っても孤独だ。
求めるという行為は貪欲にそれを自らに取り入れることが目的だ。
では取り入れたものがどうなっちゃうかですって?
それはきれいさっぱり跡形もなく消え去ります。
それこそが自我の正体である。
自我はあなたではない。
むしろあなたの敵だ。
そこで、やがてあなたはこれらうんざりするほどある楽しみ──しかも、すでによく知れたもの──とは違った場所に戻ってくる。
そこには楽しみはない。
というよりも、そこにこそ無量の楽しみがある。
何を寝ぼけたたわ言を、とあなたは思うだろう。
そんなことよりも、一触即発の世界情勢や逼迫した産業構造のパラダイムシフトの方が優先だろうって?
いや、こちらが断然優先です。
何をさておいても自分自身を知ることが優先です。
世界の問題はあなたの問題だからです。
世界の問題が解決してもあなたの問題は未解決のままだ。
あなたの問題が解決すれば世界の問題も解決する。
あるいは哲学に、
真理の探究に、
超心理学に、
何らかの学説に、
権威に、
運悪ければ宗教に、
あなたは導かれるかもしれない。
しかし、あなたはここに戻ってくる。
もちろん、このちっぽけなブログを言うのではなく、
あなた自身へである。
それは明日かもしれないし、十年、あるいは百年後かもしれない。
それが何億年後であろうとも、あなたと私を包み込む「私」は微動だにしない。
なぜならそこに時はないからである。
私たちの意識(当然無意識を含む)の外縁部とでも言うのだろうか。
それは、星々や星雲やらをひたすら創造している。
そう書くと、何かしらこの”小さな自己”から遥か彼方の消息のように捉えるだろう。
しかし、それはあなたである。
これとあれとの間に分離はない。
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