で、どう生きるべきなのか?

2025年5月9日

スピリチュアル 真理

t f B! P L

 

今宵もここ「ドコニモないカフェ」にお越しいただきまして、ありがとうございます。
こうしてここに何かを発見されたり、または静かに内面を見つめる場としてお立ち寄りいただくことがこのカフェのコンセプトです。
決して私独自のピッチング練習の場ではなく、直球、または変化球であなたの心中に投げたボールをどう受け止められるか、あるいは避けるか・・という双方向に開かれた場です。
こういう場は世界中どこを探してもありません。
私たちがこの宇宙に蒔かれた種子であるという見方をするならば、あなたも私も咲く花は違うかもしれませんが、ともに旅をする魂という時点ではなんら変わりありません。


さて、思えば多くの人物がこの地球上で多くの発言をしてきました。
いわゆる「真理」というものは一体なんぞや、それはどこにあるのか、という問いかけに対して、それこそ人類は必死のアプローチを繰り返してきました。
日本史上だけでも、めぼしい例として、例えば最澄、空海といった仏僧が、転覆のリスクの高い船に乗ってそれを求めて中国に渡ったことは夙に知られたお話ですね。
しかも当然ながら往路復路の困難を承知の上で・・。
まさに命がけであった。
これらが果たして言われるような美談であったのか否かはさて置き、帰国後両人(とりわけ最澄)は朝廷側と密な関係を築き、多くの新宗教を生み、仏教は「権威」となって行ったことは事実です。

インドでは、すでに数千年も前にベーダーンタ哲学での最高節理・ブラフマンを打ち出しました。
それ以上のものはない、至高の存在を見出した国は、バラモン・カーストの厳しい峻別を生み出し、それゆえの貧富の差は今日まで続いています。

宗教は特権階級を生みます。
特権階級が宗教を生みます。

このようにあらゆる大宗教は権威となり、腐敗し、その荘厳な建造物という遺跡を残したのみで、もはや見る影もありません。
ローマカトリックの総本山・バチカン。
世界一豊かな国バチカン市国は世界最大の腐敗のメッカです。
しかも世界を裏側から支配してきた大きな勢力の一つです。
いわゆる「悪魔教」とは何ですか? という問いに対する答えの一切がそこにあります。
あなたがバチカンが何かをご存じであれば同じ思いでしょう。
次期教皇がだれか、と煙突の煙を凝視する様(コンクラーベ)は、まさにローマ時代から何も変わらない世界の象徴のように見えて背筋が凍り付く思いです。

この「精神的な糧」「精神を高める」という発想は、しかし一般庶民には「冷や飯を食ってもおとなしくしている」という奴隷根性を植え付けるのに一役も二役も買ってきました。
「救い」という概念はむしろあなたへの精神的攻撃、または呪縛です。

「世界は苦境に瀕しているけれど、私には救いがある」
「さあ、あなたも私とともに神の道を歩みましょう」

これは、裏返せばわざわざ「悪」の通り道を作っているようなものです。
このようにして、それは黙っていても拡散(蔓延)していくのです。


誰かがどう言おうが、それらすべてを忘れてください。
「真理」をどこかに想定して、しかもそれを探す、探究する、または模倣するという時点で人類は凋落の一途を辿ったのです。
それこそが、この上ない自己分裂の萌芽だからです。

私たちの言う「精神」とは思考の生んだ幻想です。
思考はいつも受け売りで、そこに新味も独自性もありません。
思考は過去の経験と記憶からできているからです。
同時に、人間もそれに依る限りどこまで行っても旧いもの、過去でしかありません。
だからこうまで二元性から抜け出ないのです。
だから、どのSNSを覗いても、書評などを瞥見しても、呆れるくらいに一斉に、またぞろ過去の焼きなましでしかないのです。
堂々巡りです。

では、如何にしてこのようながんじがらめの精神的呪縛から脱出するのか?
われわれは解放されるべき何者なのか?

いやいや、それはまた一つ新たな葛藤を生むばかりです。
思考という底なし沼は、もがけばもがくだけ沈んでいくだけです。

で、どう生きるべきなのか?

それは、どう見るべきなのか?
に通じます。

そして、どう見るべきかを自問するとき、
あなた以外の一切は木偶であり、無用であることの深い自覚から始まります。
それらは、取りも直さず、あなたが生んだ幻想だからです。








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