幸せがなんたらかんたら・・・。
思えば浮かれたテーマである。
というか、これほど昔から長い年月にわたって、あちらこちらで生っちょろいご託宣が語られてきた問題もない。
いやその、「幸せ」という言葉の解釈についてである。
それは、私の知る限り、ポピュラーであることと、結局のところその意味するところが曖昧であることにかけては、もう一つの人気テーマ「愛」と、双璧をなすほどであろう。
しかも、である。
いずれもいまだにこれといった解決を見ていない点で、両者は酷似しているではないか。
それがどーゆーことかといえば、こたえを模索してはいるが、ついにそれがかなわないということである。
何百年も何千年もそんな状況が継続すること自体に痺れを切らすというか、嫌気がさして、ついには、それら言葉を前にこちらもいい加減にひと悶着、言いがかりをつけたくもなってくる。
明確に言えることは、「愛ってさー永遠じゃん?」とか「小さな幸せこそが大事だと思う」とかの耳タコのご意見はスルーしてよろしいということ。
なぜならば、過去に(私の口から飛び出たものも含めて)それら言葉が裏切らなかったことがないからだ。
早ければそんな言葉を吐いたその晩のうちに、宗旨替えとなったりもする。
全部法螺(ほら)か嘘八百である。
つまり、お屠蘇気分で語っては、言ったそばから忘れてしまっているに過ぎない。
───おっと、こりゃあいかん。
年を取ると愚痴っぽくなっていけねー(笑)
まずは、明けましておめでとうございます。
いや、なに、またこんな俗っぽいテーマで一年をスタートするのかって?
一年の計は元旦にあり。
ってことは、元旦のはかりごとが通年の収穫を決める。
で、この私の思うことと言ったら、またぞろ「幸せ」を筆頭に、「愛」だとか「永遠」「無限」「恒久」「悠久」「不易」「平和」「絶対」・・といった抽象的で未だこたえがない問題ばかり。
20代のころからの性癖だから、かれこれ半世紀も罹患している病だ。
何という幼稚な、大人気のない性向なんだろう。
(問題があれば答えがあるものなんだろうが、)私は答えを導くことができる問題には興味ないのだ。
なぜなら、そうした問題は私ならずとも、どこかの誰かがそれと真剣に取り組めば、自ずと答えが出るからだ。
結論が出る問題
答えがある問題
もし、「幸せ」という問題が世のありふれたそれのようであったとしたらどうだろう。
「かくかくしかじかだからあなたは幸せであると判定いたしました、よって合格です」
などという通知が来た日には百年目である。
選別されているからだ。
当然、ある基準に満たないものは「不幸せ」ということになる。
世の中には、様々なテストがあり、その結果で合否が決まるわけだが、実は人生最大のテストは、「幸不幸」の判決である。
これはシビアで、決してごまかし(不正)がきかない。
しかも、判定は試験官がするのではなく、あくまでも当人(個人)である。
いくら外野が騒いでも、マスコミや世論が絶賛していても、当人が首を横に振ればそれまでである。
こんな例はいくらでもある。
最終的には、世の価値観なるものは無意味である。
世の名声なるものも他人事のようなものである。
まして私的な財産や功績、手柄などは一切無関係である。
すべてが自分のハートに帰結する。
ゆえに「幸せ」ほど難しい問題はないのだ。
「幸せとは○○だ」ということが成り立たない。
もし成り立っても、それはしょせん独り善がりに過ぎない。
万人がそうであるとは限らないからだ。
そうした次第で、この問題にとどめの一矢が刺さらないのかもしれない。
逆に言えば、だからこそいつまでもあーでもない、こーでもないとこの問題に喧喧囂囂なのかもしれない。
しかしながら、その幸せを人類は追い求めてきたし、また、いまだに希求しているようにも見える。
そもそも、幸せとは求めるものなのか?
艱難辛苦を乗り越えて・・といった古風なやり方でもって、それは獲得、または達成すべきものなのか?
それとも、身が熟して、やがて爆(は)ぜるザクロやイチジク、アケビのように、それは自然に熟すのを待つものなのか?
いやいや、そんな賢しらを離れてそれはもともとあるものなんだ。
それに気づくか気づかないかなんだ。
幸せとは自分が幸せであることに気づいた状態のこと
タイトルにそう書いた。
確かにそう書きました。
そんな知った風なことを書きました。
この言葉は、百歩譲ってその意味するところが正しかったとしても、残念ながらお気づきのような自己矛盾がある。
つまり、「自分が幸せであること」の幸せが何であるかを問うているのに、その幸せに気付いたことが即幸せであるというのは、堂々巡りであり、言うまでもなく自家撞着である。
私は思う。
戦禍の中で生きる老幼男女に向かって、平和ボケした我々が、
「どんな状況であれ、いま生きていることの幸せをかみしめることが大事なんです」
などという寝言をほざいたりはできない。
かといって、
何不自由ない贅沢な暮らしぶりを「幸せ」というのであれば、それがいかにニセモノであったか、あるのかを知るにはそう多くの時間を要さないだろう。
かくして、「幸せ」は、迷宮入りするからこそ、私が取り組もうとする意欲も湧いて来ようというものである。



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