何億何兆年前から「今」はある。
それは、本来は連続体であって、そこだけ抽出したり切り取ったりできないものだ。
となると、あなたも私もこうしてくつろいでいる「今」は、実に何気に太古の昔より連綿と受け継がれてきた「今」であるわけだ。
オリンピックの灯を絶やさないどころか、今の灯を絶やさない。
一本まんまの大根を「今」というのであれば、そうでなく、私たちの日常のように、千枚漬けのような薄切りを出されて「今」というのはいかがなものか?
そいつはニセモノ認定してもよいのではないか?
──などといった詭弁とも屁理屈ともつかない独り言がついつい口をついては、自分で悦に入ってみたり・・。
だから、普通に「今」という時、いくら正確で緻密に見えようとも、それは実際にはない架空の時間を表している。
しかも、それははなはだ不完全であるばかりか、それを「今」といった段階で、その「今」の表す事象は、すでに過去に遠ざかっている。
時は間断なく動いているからである。
例えて見れば、今とは、ここにある池に石を投げた、まさにその瞬間を指している、ともいえるだろう。
すなわち、それは「動き」であり、「動機」でもある。
石が水面を波立たせるその王冠現象を「今」というとき、さしずめ、それ以後に輪になって形成される水紋は、「未来」ということになる。
さらに、もしそういいたいのであれば、投石というモーションが起こる以前の水面を「過去」と称しても差し支えないだろう。
しかし、実際には、ただ広がる池があるだけで、そこに過去も今(現在)も、未来もない。
同時に「あなた」も「私」もない。
では、「今」という時はどのようにして出現するのか?
それが常に「過去」および「未来」といった定点から見たときに初めて現れる相対的なものであることは事実だろうし、また逆に、「今」があってこそ「過去」が存在し、さらに「未来」も存在するということもできる。
「今」は正確には時空では測定できない。
それは一つの流体であって、もしかすれば竜体でもあるのかもしれない。
あなたは明日、金持ちになるだろう
あなたは明日、悟るだろう
あなたは明日、幸せになるだろう
いつも希望的観測あるいは理想主義という破壊者が、今という現実を消し去ってしまう。


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