前置き
そもそもこうした厨二病こじれのような病巣(表題のごとき問題)を抱えたまま、老境を迎えたものというのも、そうそう多くはいまい。
「君は確かに病んでるんだよ」
とか宣告されたなら、そこは抗わずに静かに首を縦に振るくらいの正気さはまだどこかに残しているつもりだ。
個人が受け入れる世界=現実
「現実」と気安く言っているものの、それは
時折、
とか、
しばしば、
とかではなく、
その粗方(あらかた)が、
実は単に感覚が描いた空想、妄想、迷走である。
────そのように思わざるを得ない局面に出くわすことがある。
私が知っている限りの取り巻き────庶民すなわち小市民、一般市民と言われる弱者(情弱も含めて)、すなわち一般大衆、大方の「お隣さん」────がいい例だ。
彼ら彼女らは、右の耳から「Aは悪い」という情報を入れれば、左の耳からは「Bは正しい」となって出てくる。
それこそどこぞのスーパーでモヤシが安いとかいう情報が彼女の世界を構築しているのであれば、どこぞの国が攻めてくるかもしれないぞなどという情報は、現行の世界観を崩壊させる危険性をはらむ。ために、耳に入らないのではなく意識的に遠ざける。
いやそうした近視眼的な世界観で外界を観ているのであれば、まだしも哀れだと思うが、しかし、問題はそこではなくて、私たちはみな異口同音に「現実」とはいうものの、各人の世界の認識の広がりの大きさによって、それは変化するものなんではないだろうか?
早い話、「現実」はみな違うのだということ。
地動説は人を幸福にはしなかった
ついでといっちゃなんだが、
「それでも地球は廻っている」
ガリレオ・ガリレイがそう呟いたのが1633年、第二次宗教裁判でのこと。
奴は有罪、終身刑に処されたわけだ。
やるだろう?
ガリレオも病んでいたではないか。
おっと、それ以前のコペルニクス然り、16,7世紀くらいまでは世界は天空が回転していたわけだ。下手すりゃ、メトロノームの先っちょに赤絵の具で描いたお日様をはっ付けて、ハイ日の出、日の入りでございまーす、なんてやってたわけだ。
いや、もちろんそれは冗談にせよ、一般市民の頭ン中はそんなモザイクみたいな世界観だったんだ。
第一、肝心のそれら天空のショーを見るための、よって立つ地盤・地球にしてからに、それは平面だと思い込んでいるものも多くいたんだ。
現実逃避という現実
多かれ少なかれ,とかく人は現実逃避をしているものである。
いや、現実を避けて、空想や妄想の世界に生きている側面もあるのではないか?
いやいや、それだけではまだ核心を突いていない。
だいいち「側面」どころではない。
全面であったところで、それはさほど大きな問題ともいえない節も確かにある。
ここで確認しておこう。
世界で初めて地動説を唱えたのは、紀元前3世紀ころ古代ギリシャの天文学者・アリスタルコスという人物であった。
あなたはその名をご存じだろうか?
一般にはあまりポピュラーとは言えないだろう。
つまり「地動説」はほぼ知られないままに16世紀を迎え、有名なコペルニクスの登場を待つしかなかったわけだ。
それまでの数十世紀は、前述のように、ほとんど一般市民は、空には天蓋があり天球が回転するといった「天動説」を信じていたのだ。
天動説から地動説へ。
これほど大きなパラダイムシフトもないだろう。
しかし、そうした真理に触れて、人類は幸福になっただろうか?
なるほど科学の発展や機械文明などの基盤として、それが重要な役割を果たしたのかもしれない。
いや、それによって学問が進展したとしよう。
しかし、人の幸不幸の問題は別である。
人が幸福である問題と、
地球が回転するか、天が転回するかという問題は別個である。
まったく縁がない。
「現実」というとき、私たちは無意識にそれを物理的な次元、または3次元世界に落とし込むことでよしとしているのが普通だ。
しかし、実際はもっとメンタルな部分、精神作用まで含めてそれは変化し、次第に形になって行っているのに違いない。
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