昔どなたかの著書に書いてあったことが、妙に説得力があったので、記憶に刻まれている。
それは西欧社会におけるキリスト教の微妙な存在感についてである。
ニーチェに凝っていた時分、その思想の淵源を探る──と言っちゃあオーバーですが──要は”それ風にどこかの誰かが解説した論説の抜粋的なもの”を渉猟していた際に出合ったものと記憶している。
ご存じのように、ニーチェは西欧社会に根付いた「ルサンチマン(怨恨)」の精神、庶民の中でも虐げられた者特有のねちっこい、いやらしい二枚舌風の精神とでも言ったらわかりやすいのだろうか、それを徹底的に攻撃した。
それはキリスト教の教会にはびこる宗教的な退廃からそのまま受け継がれたものだ。
それを「僧侶的」(能動的な「貴族的」とする価値観の対極にある消極的で陰性なそれだ)とニーチェは言った。
────とは、私流にずいぶんと曲解した解釈なのかもしれないが、それだけ西欧社会には「キリスト教」という一神教が深く浸透していた(また、いる)わけである。ニーチェが「アンチキリスト」を叫ぶほどに、である。
では、彼ら西洋人がみなこぞってキリスト教の信者かといえば、もちろんそうではないということは脇においても、むしろ明らかに、積極的に嫌う人が多いそうなのである。
意外なことである。
そして、ここが重要な点なのだ。
外人サイドからの批判を許さない
のだ。
大いに屈折したそれは一種の人種差別ともいえる態度ではなかろうか?
「あんたらにはかかわりのないことだから、余計な口出しはしないの、わかったわね?」
みたいな。
「あんたに言ってもらいたくないのよ」
そう、おそらくは関わりさえ持ってもらいたくないのだろう。
白人優越意識というんでしょうか、
と思わざるを得ないものです。
或いは、キリスト教の「原罪」までを同じ西欧人同士で共感しあい、そうした深いところで排他意識を育んでいることが、その優越意識の土台になっているのでは? と思わしめられたものです。


0 件のコメント:
コメントを投稿