《この項はnote『食は心身に先行する【是か非か=序】』の後篇です。》
西村君…眠れないんだ…
ボクの体はラーメンで出来ているんだよ
ラーメンが食えないとなると僕は何を楽しみに
生きていけばいいんだ…
ラーメンがないと、ボク、死んじゃうよ
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映画『南極料理人』で、密かにラーメンを盗み食いしているところを料理人(西村)に見つかった際に吐く隊長(きたろう)の名言=『自転車から今日は♪』より |
あれもダメ、これもダメ
「食」は理論・理屈ではない。
時には無心にむさぼるようなパッションでありエモーションである場合もある。
その背景に、前篇(note『食は心身に先行する【是か非か=序】』)に書き留めたような「宇宙の秩序」の無限のエネルギーがあるとなると、それもわからなくもない。
少なくとも旺盛な食欲が減衰したときと、病は近しい関係にありそうだ。
さて、あなたも食べ物に気を付けておられる一人かと察しますが、当然心中で(身体に)「良い食べ物」「悪い食べ物」という分類をしているかと思う。
前出の「マクロビオティック」の前身である「正食」、それ以前からの食養道ではさらにこれを徹底しているといっても過言ではない。
「正食」に対する「邪食」という見方がそれだ。
(耳馴染みがない方も多いかもしれませんが、古い食養家? であればお馴染みの言葉)
実際、正食から見れば、今日の食事で「邪食」に該当しないものを探す方が難しいことで、しかも真面目に正食と向き合おうとするものほど、その「邪」の範囲は広がっていく。
コンビニに行ってもスーパーに行っても、とても恐ろしくて買うものなどない。まして外食チェーンなどのどのプレートをとっても食えるものはない。
「あれもダメ」
「これもダメ」
しかし、心中は
「あれも食いたい」
「これも食いたい」
このことを何というのかは、もちろん「葛藤」の二文字以外のなにものでもない。
それが、まだ「悪い食べ物とは〇〇で」と、通り一遍の知識しかないものであれば、「なるべくそれは避けて・・」といった妥協もあるだろうが、なまじその方面の知識が該博であった日には、それこそ「山にでもこもるしかないのか・・」となって当然だろう。
まして仕事がある。
会社勤めのものに、どうして選択の自由があるだろうか?
ある程度、そこそこ、ほぼほぼ、まあこれくらいは、といった妥協の連続から、やがてその「正食」は崩れていく。
もしくは、会社を辞めて自営でという選択肢に迫られる。
正と邪の葛藤
この世に、正義を立てるということは、同時に邪もまた立てることである。
正義は(邪に)勝つ
破邪顕正などという難しい言葉もある。
いずれも「闘い」「闘争」ではないか?
スピリチュアルで言う「光」と「闇」・・光側とか闇側とか、、、まあ性懲りもなく(笑)
それは、闘い、争い、戦争ではないか?
私たちが過去に嫌というほど経験してきた「正義のため」「平和のため」の、それは戦争ではないのか?
どうやら、この辺りに前回に書いた疑問の解答があるのではないだろうか?
つまり、「なぜ、食にこだわっている人ほど短命なのか?(善人は若死にする)」・・この世に「善」なり「正義」なりを立てて、その道に邁進することで、命を縮めたり、病にたおれたりする事実。
その元凶はその根底にある二元論にありはしないだろうか?
「悪いものを食べているなあ」という自意識は、それが積み重なっていくと「罪の意識」を形成する。
それは、誰しもが暗に感じるように「毒」である。
それは、誰しもが暗に感じるように「毒」である。
また、逆に「(自分は)良いものを食べているんだ」という自意識が堆積してゆくと、人はとかく天狗(高慢)になりがちである。
自らがよいものを食べているのであればそれで結構なのに、人によっては、他人がいわゆる悪いものを食べているのを白眼視する。説教する。
これは、もはや言うまでもなく、つまらない新興宗教の信者に等しい。
何日も飯にありつけずにいたものの前に、たとえカップヌードルがあったとして、それを身体にいいものだとか悪いものだとか思慮するだろうか?
彼はお湯を入れて3分と待ちきれずに、それをあっという間に啜り倒すに違いない。
そして、それは立派に栄養として摂取されているのだと思えてくる。
このように、実際のリアルな世界での食は、あるいは生命は、「理論」ではない。
いや、その理論が完璧に近くなればなるほど、どこかしらそれは危うい感じがしてくる。
(満月がやがてかけ始めてくるように・・)
生命は理論ではない
桜沢如一を私は好きである。
それは、私が、虚弱体質であった幼少時に彼の哲学(食養生)によって見事にそれから脱出できたからではない。
彼から多くの知恵を学んだからでもない。
彼はさまざまな顔があるので、〇〇だとは語れないにせよ、私は彼の本懐は、彼自身の著書にもあるように「永遠の少年(青年)」であり、自らの人生を丸ごと冒険にあてるといったそのロマン、詩、情熱であったと思う。
そこが彼の魅力であったし、あるいは同時に(ご自分でもわかっていたうえでの)死角だったのかもしれない。
彼は自身の母親を若いころに結核で失くしたことが、食養へ傾倒したきっかけとなった。
食養の(特に初期のころの)病人向けのトリートメントというものは、秀逸であり、驚くべき効き目があった。
しかし、桜沢は、そうしたやり方も「対症療法」として退け、晩年はNo7(穀物のみを食べる)という彼の理論上の帰結にそれを当てはめるようになった。
私はどーも、彼は自らの理論にすべてを持っていくような傾向があったように思える。
民間療法、伝統療法であった「食養」に、命を吹き込んだのも彼である。
なぜなら、『易経』『老子』といった東洋哲学にある陰陽理論を「食」に持ち込んだのが、他ならない彼だからである。
それは、子供にでも、エネルギーの相を直感的に捉えることが可能な、カタカムナにも通ずる本能的な眼の開眼であった。
それによって、ネイティブな療法を世界のマクロビオティックにまで拡大したことは彼の天才のなせる業だったろう。
しかし、すべてをこうした「理論」で解決する姿勢に無理はなかったか?
なぜなら、理論で生命を語れても、生命は理論ではないからである。
食は身に先行する──心身は全く違うものだが一体である
最後に、この項のテーマである「食は心身に先行する」ことの是非はどうか、私見を述べてみたい。
この命題は一見、理論上は正しそうに見える。
だから私はそれを30年近くも信条としてすら来ていた。
しかし、どーもしっくりこない。
正確には、物理的には正しいが、精神的には疑問符が残るといったらよいか。
それは「心身」の解釈にある。
よく霊肉一如とか、心身一如とか言うが、これは両者は切り離せないものであるという解釈だ。
つまり、肉体だけが病む、心だけが病むということはあり得ない。
肉体の病は心にその病因を探し、心の病は肉体にその病因を探すべきである。
その意味で「食」があって成り立つのは心身の「身」のほうであり、「心」ではないのではないだろうか?
当然心身両者はいったいを成すものだから、身すなわち肉体の健康不健康が心に大きく影響するし、逆に心の動揺が身体にも影響を及ぼす。
しかし、心そのものは食によって生成されるものではない(と思う)。
ここで、前出(noteでの投稿)にある対数スパイラル(下図)を思い出してもらいたい。
私にとって懐かしいこの図は、あるいはもしかしたら現代風な「生命の樹」なのかもしれない。
しかし、私はこの図に一つだけ疑問がある。
(さて、ここからはこの私の幼稚なアタマで描いた単なるつたない妄想として聞いてほしい。)
結論から先に言えば、この円盤の外周にある最も謎なもの「絶対無限世界」が問題である。
その言葉はそのままにしてもしなくても構わないが、そこに当てはめる文字を「=わたし」にしなくてはならない。
それが(このような理論で言えば)「わたし」なるものの正体ではないだろうか?
実際は、桜沢はそういうことを含意したうえで、この図を描いたのかどうかは知らない。
しかし、どうだろうか?
ただこの図を眺めると、一番中心にある「人(の世界)」が、その「絶対無限世界」からあまりにも超絶的に離れすぎている感がするではないか?
ちょうど、私たちが星空を眺めて、「ああ、宇宙ってどこまで廣いんだろう」と似た嘆息がそこにある。
それは、この図の(1)人──つまり、通常「私」と言っているもの、エゴ、肉体をまとった自己──の嘆息であって、ホントーの(というかホントも嘘もないが)わたしはそこにはおらず、実に(7)すなわち無限世界にある。
そして、図の通り(6)から(1)までの世界はすべて物質界、有限界のものごとである。
(だからどれほど遠方の銀河であろうがそれは消長し、いずれは消えてまた新しいものに変わるし、人を含むあらゆる動植物は死と再生を繰り返す)
わたしこそが「私」の統治者である
わたしには理論(秩序)は通用しない。
なぜなら、わたしがその秩序を創っているものだからだ。
わたしが空間、素粒子から原子、クロロフィル、ヘモグロビンを創り、そうして最後に「私」を創っているのだ。
だから、心臓は黙っていても動くし、神経系統は意識せずとも働くのだ。
実にそれらはわたしという本体の操る糸であり、「私」はわたしのパペットに過ぎない。
この辺の世界観は突拍子もないようだがもはや『エイリアンインタビュー』の宇宙人エアルが語ったものに近い。
ここの解釈は難解だろうが聞いてほしい。
桜沢如一が生涯説かれたその陰陽哲学は素晴らしいが、それは完璧な唯物哲学ともいえるということだ(私がそのことに気づいたのは40も過ぎたころだった)。
なぜなら、それは先に指摘したように、生命の発生学のそのおおもとに「無限」「絶対」という抽象概念を置いたことによるからだ。
それ(図で言う7)は、事実上(理論上)欠落していると見て取るほかないではないか(むろん、それを表せないのだから)。
お分かりのように、そうなると後(6~1)は唯物論の世界である。
しかし、その(7)の座に”わたし”が入れば、この対数スパイラルに命が吹き込まれ、回転し始めるのではないか?(一応誤解のないように付記すれば、そのわたしはこれを書いている「私」ではなく、それを観ているわたしであり、あなたである)
わたしは「食」よりもはるかに強力なエネルギーを内包している操縦士である。
食にとらわれることでわたしを見逃すのであれば、そこに不具合が生じて当然ではないか?
このことが、正食が抱えてきた矛盾点を一気に解放するのでは、という私の洞察である。
冗長ですが、意外な角度からの「マクロビオティック」論です。
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